名を “ライラック”
「お願いですから騒がないで下さいましね。」
乳母がたくさんの子どもを前にしかめ面をつくる。
「ぼっちゃまは今具合があまりよろしくありませんので。」
「そんなこと言ったってそんなの年中じゃない。」
子どもの中の一人が言う。
一番年上の、高慢そのものの様な顔をした少年である。
乳母はなんとか笑顔を崩さずに辛抱強く言った。
「ええ。ですが今は特にお加減がよろしくないのでございます。ご理解下さいませ。」
「ふーん。」
少年はどうでもいいとばかりに適当に頷いた。
「よっ!ひ弱っ子!」
5分も経たないうちに、子どもらは少年の部屋に来ていた。
大人の言うことに従うなど、どんなに大変な思いをしたとしても嫌な年頃なのだ。
「お前…大丈夫か?確かに具合悪そうだな。」
一番年上の少年が言った。
彼らは大人が嫌いなだけで、別段少年が嫌いな訳では無い。
少年ーー病弱な少年の名前をオリビエというーーが笑って言った。
「大分良くなってきたんだよこれでも。」
オリビエはいつものようにベッドに横になっていた。
正直なところ、全く大丈夫では無かった。
笑顔がやっとのぎりぎりの状態だった。
でも言ったところでどうしようもない。
彼らに分かるはずも無い。
「あのなオリビエ、俺今日すごい本持って来たんだ。見ろよ。」
少年が見せてきたのは黒魔術に関する分厚い本だった。
「これにな、すごいことが載ってたんだよ。えと、あ、そうそうこれこれ!」
「『魔神召喚術式の構成と解析』?」
そこには魔神を召喚する魔方陣と召喚する為の儀式の順序次第が書かれていた。
「へえ、すごいね。こんな本何処で手に入れたの?」
「父さんの本棚から拝借してきた。」
「それはまずくないかい?」
異界の生物の召喚は法律で禁止されている。
生態系の乱れやその他危険なことが多いからだ。
術式は少ない魔力で使え、魔術の基礎とも呼ばれる。
子どもでも扱い易いのでこの手の本は子どもの閲覧は禁止されている。
「ちょっと興味あんだよな。」
少年の目が好奇心にきらりと輝く。
「やるなって言われたらやりたくなるってもんだろ。」
書き終えた魔方陣を前に、少年は満足そうに笑った。
「あとはーーー……」
オリビエは魔方陣を覗き込んだ。
魔力を増幅し中央に集めるための魔法文字で書かれた回路が複雑に絡みあい、細かい細工ものの様だった。
「ねえ、…けほっ…本当にやるの?」
「なんだ、今更それはないだろう。」
少年が顔をしかめた。
「あとはここに血を垂らすだけなんだー……」
その時、オリビエの顔が苦痛に歪んだ。
「…ゲホッ…う゛っ…え゛ほっ…」
つぅー…と手を血が流れた。
「だ、誰か呼んでくる!」
一人が青ざめて叫んだ。
しかしそれを、年長の少年が遮った。
「馬鹿言え!これがバレたら監獄ものだぞ!いいのかそれでも」
「ゴボッ」
少年が言い終わらない内に、切れた血管から噴き出した血が口から溢れ出て、美しい模様を成す魔方陣へと降り注いだ。
するとたちまち魔方陣に変化が起き、文字が光り、くるくると回り始め、植物が芽を出すように何かが出てきていた。
「…ああ…ああぁあ…あ!!」
魔方陣の中央にはこの世ならざる世界の住人が、大きな目玉をくるくると忙しく動かしてグリッと頭を捻っていた。
《€₥₤¢§¶∟∽∅∋∈》
金属の弦を弾く様な背筋の凍りつく声だった。
「う…わああああああああっっっ!!!」
少年たちは逃げ出した。
オリビエを置いて。
血相を変えて走ってきた子どもたちに乳母のリエは嫌な予感に胸を締め付けられた。
「どうなさったのです。」
「どうしよう…どうしよう」
少年はガタガタ震え今にも泣き出しそうだった。
「ほんとに呼べるなんて思わなかったんだ。」
リエの頭に“召喚”の二文字が光った。
「オリビエが……」
「!…ぼっちゃまがどうしたのです。」
「へ…部屋に…つか、捕まってたら、どうしよう……」
「あなたたちぼっちゃまの部屋でやったの!?なんてことを!だからあれほど言ったのに!」
走り出しながらリエは口調が乱暴になったことにも気づかずに怒鳴りつけた。
「いい加減にしろって怒鳴らなきゃ駄目?」
オリビエの部屋に着くとまるで嵐が吹き荒れでもしている様な風のおとがしていた。
何かが叩きつけられる音もする。
「ぼっちゃま!?」
ドアノブにいつものように手を伸ばした。
「…っっ!」
バチィッ!と電流が走り慌ててひっこめる。
相変わらず嵐の様な音がする以外は何の音もしない。
「ぼっちゃま!?御無事ですか?お願いです、開けて下さいませ!」
驚いたことに、言い終わると同時に扉がキイー…と軋んで穏やかに開いた。
強い風が吹きつけてきてリエの服がはためく。
「誰!?」
渦巻く風の中心に、オリビエを抱いた少年が薄く笑みを浮かべて立っていた。
オリビエは口を血で濡らしピクリとも動かない。
「……呼びだされた魔物とはお前か」
リエが低く問うた。
少年は笑顔のまま首を振った。
「ちがうよ。私は天使……?」
言いながら少年は可愛らしく首を傾げる。
「……ふざけないで。真面目に答えなさい。」
「……私にもよく分からない。私が何であったか。長い年月を過ごすうちに忘れてしまった。この」
少年が腕の中のオリビエを見た。
「子どもが私の事をそう呼んだのだ。名前もくれた。」
少年の顔に嬉しそうな笑顔が広がった。
「私はライラック。だ、そうだ。」
少年はオリビエの額に頬を寄せてまた笑った。
リエは不覚にもつい、キュンと胸が弾むのを感じた。
とても幸せそうな笑顔だった。