向日葵の栞
[1]
「明日だけが未来じゃない。
昨日だけが過去じゃない。
でも、今は今だけだ。
そう考えると
少し前向きに歩き出せる気がした。」
何回読んでもこのラストはグッとくるな。
三好有人は思った。幼い頃から読み続けているこの本はペンネーム水無都-ミナト-という作者が書いた「聖なる行進」という本だった。有人は気弱な性格だったため、昔からよく本を読んでいた。初めて出会ったのは小学生の頃だった。いつもの様に漫画の新刊を買いに近所の本屋に立ち寄ったのだ。その日は混んでいたため、普段は滅多に通らない小説コーナーを通って漫画コーナーに向かおうとした。
そんな時偶然目に入ってきたのが「聖なる行進」だった。何冊も羅列してある無数の本の中から、何故目に入ったのか自分でもわからなかった。気づけば有人は漫画は買わずにその小説を手にとってレジへ向かっていた。
ーーーこれで何回目だろう。何回この本を読んだだろう。と有人は思った。過去に水無都の他の本を何度も探してみたが見つからない。どうやらこの1冊でペンを置いたみたいだ。
「おーい有人!いつまで寝てんだよ遅刻しちまうぞ」
そんな時聞き慣れた声が聞こえた。
幼馴染の香原朝日だった。
今行く、と軽く言ったあと少し急いで部屋を後にした。
栞は挟まずに本を閉じた。
教室には誰もいなかった。河野葵は
自分が1番乗りに来たのは入学当初以来だと思い出し、頬が緩んだ。今日から高校3年生。ここ桐了高校では3年間クラス替えがない。そのため、皆見知った友達ばかりだった。葵はゆっくり教室を歩き、自分の席についた。決して新しいとは言えない机と椅子に染み込んだ、木の匂いが香った。好きな匂いだった。葵は朝日と有人と幼馴染だった。家が近所という事もあり、昔からよく遊んだ。もちろん今もそうだ。ただ、彼らに恋愛感情を持つべきなのか
どちらかに絞らないとダメなのか。18歳になる今年、そんな事も考え始めていた。ふと、有人の机を眺めてから朝日の机に目線を移した。そんなとき、教室のドアが開きクラスメイトが入ってきた。何故か葵は朝日の机を見つめていたことがばれるのを怖がり、窓の外に視線を移し替えた。
机の木の匂いと混じって少しだけ春の匂いがした。
「は?まだお前決めてねーの?」
そう切り出したのは朝日だった。ようやく本題に入ったような表情だった。天気は快晴だったが、4月にしてはまだ少しだけ寒い。青い空に朝日の茶色い髪が綺麗に反射した。
「あ、うん。なんか考える暇がなくて」
嘘だった。
「んなこと言ったってよお、俺はもう決めたぜ」「その様子だとそうみたいだね」
2人は進路の話をしていた。進学か就職か、2人の未来の話だった。春休み前、始業式までに考えてお互い話す、と言うのが2人でした約束だった。
「で、結局朝日は?」
「俺は就職する」
意外な答えだった。信号が赤になり、2人は足を止めた。
「何で黙んだよ」
朝日が沈黙を破った。
「いや、想像と違う答えだったからさ」
有人は苦笑した。信号が青になった。
「親父さん、継ぐの?」
少しだけ小声になった。
「あぁ。そのつもりだ」
そっか、と言い残し2人は歩き出した。有人は自分だけが置いていかれている様な気がした。春休み中も本ばかり読んでいた。時間がないなんて全くの嘘だ。朝日が悩んで出した答えだと考えると何故だか胸が熱くなり、焦燥感が襲った。有人は少し早歩きになった。
「おい有人!何でそんなに急いでんだよ。まだそんな時間じゃねーだろ」
小走りで朝日が付いてきた。有人は振り向かずに言った。
「早く葵に会いたくなっただけだよ」
その言葉の意味は自分でもわからなかった。
少し冷たい風が2人の間を通り抜けた。
[2]
季節は夏。8月になっていた。例年よりも気温が高い。梅雨の期間が短かったのもそのせいかもしれない。古ぼけた校舎を背に3人が出てきた。
左から有人、朝日、葵の順番だった。昔から決まってこの順番だ。
「あーもうマジであちぃ。溶けちまうぜこの調子じゃ」
朝日が言った。
「馬鹿じゃないの」
「ほんと馬鹿」
葵と有人が立て続けに言った。
「いやでもさ、今こんなに暑いだろ?今年は特に暑いって言ってたろ?冬とかなくなんじゃねーか今年」
朝日の真面目な顔に、少しだけ笑えた。
「だいたい、冬がなくなるってどーゆー意味なんだよ」
有人がそう言うと3人で大声で笑った。幸せな時間だなと思った。高3になってもあまり変わりはなかった。いつもの様に学校に行き、いつもの様に授業があり、いつもの様に帰る。そんな毎日だった。
ただ、それは自分だけが進路の話から目を背けている結果の日常だった。現に、進学を決めた葵はこれから塾に向かうらしい。
いつもの曲がり角で葵と別れた。ちらっと横を覗き込んでみると、朝日は何やら歌っている。
今日もご機嫌のようだ。確かに今日は暑いな、ふとそう感じた。左側に広がる田んぼに目をやると、この猛暑の中畑仕事なんて、給料が良くてもしたくない、そう思った。
次の角で朝日とは道が分かれる。角に差し掛かる直前、朝日が言った。
「なあ有人。俺が言う筋合いもないけどよ、そろそろ決めた方がいいんじゃねーか。将来の事」
振り返り、いつになく真面目な顔だった。久々に見たと言えば朝日が怒るだろう。有人はこの表情に見覚えがあった。小学生の時だった。
有人はクラスでも随一の弱虫だった。よく泣かされては傷を作って家に帰ってきていた。その日もそうだった。理不尽にケンカをふっかけられ、庭に突き飛ばされた。いわゆるガキ大将というやつだ。
帰り道、とぼとぼと帰路についていると銀じいの姿が目に入った。銀じいは有人を見つけるとにこっと笑った。平田銀二通称銀じいは近所に住むおじいさんだ。昔からこの町に住んでいて、
朝日と葵の事もよく知っている。
「なんだ有人。また泣かされたのか」
ニヤニヤしながら銀二が聞いてきた。有人は目をこすり涙を拭き、泣いてないもん、と小さく呟いた。
「どうして銀じいはそんなに強いの?おばあちゃん随分昔に死んじゃったんでしょ?」
涙目を浮かべながら有人が聞いた。銀二はにこっと笑って有人を庭に座らせた。冷たい麦茶を用意し、有人に渡し、自分も石段に腰掛けた。
「銀じいは強いことなんてないさ。銀じいだって弱いんだよ」
「嘘だよ。1人で暮らして寂しいはずなのにさ、畑仕事もして、銀じいは強いもん」
銀二は麦茶を一杯飲んだ。
「有人。人間なんてな生まれる時はあんなにお母さんを苦しめて長い時間かけて生まれてくるのに
死ぬ時はコロッといっちまうんだよ」
有人は目を丸くして聞いた。銀二は昔、戦争で妻 十和子を亡くしていた。
「生まれた時から何もできない人間なんていないんだよ。人は必ず意味があって生まれてくるんだ。
有人の好きなことは何だい?」
「マンガ!僕はマンガを描くのも読むのも大好きだよ!」
思わず立ち上がって話した。
「だったら漫画家になればいい」
そう言うと銀二はまたにこっと笑った。屈託のない素敵な笑顔だった。有人の心にざわっと旋風が吹いたような感覚になった。顔が綻んだ。
「おい、とっとと歩けよ」
声が聞こえた。朝日の声だった。そこには今日有人を泣かした2人が立っていた。膝にはアザがあった。
「ほら、はやく」
朝日がまくし立てた。
「有人、悪かったよ…」
ガキ大将が頭を下げた。初めて見る光景だった。その時の朝日の表情がフラッシュバックしたのだ。
「うん、そうだね。考えてるよちゃんと」
頼りない返事しか声に出せなかった。
夢…描くと見るのとでは雲泥の差があると改めて実感してしまった。分かれて見えた朝日の後ろ姿が何故か大きく見えた。自分の手の届かないところに行ってしまいそうな、そんな気がした。
[2]
暑い。俺がもしチーズならすぐに溶けるだろう。なんてことを考えた。脳まで麻痺してきたのかと苦笑した。ビルに反射する太陽が気温を何倍にもしてる気がした。改めてバックの中を確認した。資料にぬかりはない。グレーの背広の内ポケットから名刺を出す。前田司郎と書かれていた。ネーミングセンスの無さに少しだけにやけた。
辺りを見回し、ターゲットを探した。若すぎる女性は逆に良くない。今回の仕事は化粧品。年齢が行きすぎず、極端に若くない、いわば、ちょうどいい女性を探すのが1番だった。そんな時1人の女性が目に付いた。30代…いや20代後半か。男は彼女に向かって歩き出した。と同時に腕時計をきつく締め直した。ターゲットを見つけた時の癖だった。
「お嬢さん、落とされましたよ」
後ろから声をかけた。
「え?」
思った通りの年齢層だった。
何をです?と少し警戒気味の声が返ってきた。
「あぁ、失礼。見間違いでした」
そう言って一旦立ち去るふりを見せる。
「あ、あの何か紙が落ち…KOYO化粧品 人事部長 前田司郎…?」
名刺をわざと落とした。いつもの手口だ。
「あぁ失礼。ありがとうございます。もしかしてうちの会社をご存知ですか?」
「いえ、聞いたことないです。化粧品ですか」
「よろしければ新商品が開発途中でして、色々と意見をお聞かせ願いたいのですが、今お時間ございますか?とても綺麗な女性なので」
女性は口元が少し緩んだ。そして、少しだけなら と続けた。男はにやけてしまうのをこらえ、近くの喫茶店に移動した。罪悪感などは微塵も感じなかった。
「女性という者は化粧をすれば化ける。とよく言いますが、私はそうは思いません。元々女性にはその人にしかない、美しさというものがあると思うのです。それをさらに引き立てる為の道具だと、私は考えております。」
「すごい。そんな考え方したことなかったわ。化粧をしないと外に出れないくらいだもの」
そう言いながら女性は自分の頬を軽くさすった。
「でも、紳士な方でよかったわ。こーゆーことで騙されたりした、みたいなニュースをよく見るから」
「物騒な世の中ですよね。でも私はお客様の笑顔が見れた時、この仕事にやり甲斐を感じます。続けていてよかった、とそう思いますね」
「素敵ですね。で、私にはどんな魔法をかけてくれるのかしら?」
軽く微笑み、商品説明を始めた。今回はファンデーションと、特別に小顔になる薬も付けると説明を加えると、女性はまるで餌に食いつく魚のように聞き入った。
「とまあ、こんな所です。何かご質問はございますか?」
「いえ、大丈夫です。えっと、登録費が今必要なんでしたっけ?」
「そうですね、こちらでご契約なさるという事でしたら契約書にサインと、初回登録費の5万円。こちらでお手続きとなります。」
「わかりました。少し銀行に行ってきますね。ここでお待たせしても大丈夫かしら?」
「構いません。お待ちしております」
にこっと微笑んだ。女性が店の外に出るのを確認してから、すっと肩の力を抜いた。今回のビジネスも無事に済みそうだ。後は登録費をもらい、商品の代金8万円を口座に振り込ませ、初めの1ヶ月だけ偽の商品を送ればこの女性ともおさらばだ。
しばらくして、女性が帰ってきた。残りの説明を済ませ、女性が契約書にサインをした。
「ご契約ありがとうございました。では商品代金のお振込みが確認され次第、配送させていただきます。あ、それより前に無料のサンプルももちろん送らせていただきますので」
「わかりました。あなたの魔法にかかってよかった。これからもお仕事頑張ってくださいね」
「励みになります。ありがとうございます」
にこっと微笑み、綺麗なお辞儀で彼女を見送った。
ネクタイを外しカバンに入れた。ふうっと息を吐く。種は蒔いた。あとはーーー
そこまで考えたところでくぐもった。焦ってはいけない。そう自分に言い聞かせた。予備の名刺を細かく破りゴミ箱に捨てる。前田司郎という人物がこの世から消滅した瞬間だった。
葵は2人の事を考えていた。無論有人と朝日の事だ。これから卒業したら2人とももちろん簡単には会えなくなる。葵は上京を考えていた。このタイミングしかないと思っていた。葵の夢は教師だった。
幼い頃からたくさんの親戚や様々な人に囲まれて育ったため、無償の愛を与えられてここまで来たのだ。自分も子供が好きな方だった。離れ離れになる前に何かを残したい。離れていても繋がってるという証拠を、証明を残したいと考えていた。もどかしかった。そんな考えを巡らせているうちに、学校に着く所だった。校門までの長い坂。最後の関門だ。
葵は少しゆっくり歩いた。何故かまだ学校に着きたくなかった。できるだけ坂の隅の方を歩く。そんな時、一輪の花が目に入った。アスファルトと溝の隙間、微かに揺れながらもしっかりと咲いている。
向日葵だった。確かに夏だがこんな向日葵は珍しい。1輪で孤立して咲く向日葵は珍しかった。か細いその姿を見て、何故か葵は涙がこぼれていた。
今を必死で生きている。そう感じた。同時にこれだ。と思った。
「葵?え、なにしてんの」
後ろから朝日の声がした。不思議そうにこっちを眺めている。
「ねぇ、見て。向日葵」
「向日葵?こんなちっこいのが?タンポポの間違いじゃねーの」
「違うよ!よく見て、向日葵だよ」
「花のことなんてよくわかんねぇよ」
そう言って朝日は笑った。
「朝日。ひまわり畑をつくろう」
葵は意を決したような表情で言った。朝日は思考を巡らせ、ん?と固まった。
「満開のひまわり畑をつくろう。私たちがここにいたって証明を」
チャイムの音が聞こえた。1時限目開始を知らせるチャイムだった。
「ったく遅刻じゃねーか」
朝日はそう吐き捨てて、葵の横にしゃがんだ。
有人は驚いた。ひまわり畑をつくる話を朝日から聞いたとこだった。
「ひまわり畑?どうやって?」
「知らねぇよそんなの」
「俺たちがここにいた証明ってのを残したいんだってさ」
証明か。有人は葵の顔を思い浮かべた。確かに葵らしい発想だと思った。
「泣いてたんだよ。あいつ」
朝日が言った。
「あいつって、葵?」
「うん」
「なんでまた」
「俺たちが離れるからじゃねーの?今までずっと一緒だったから、卒業して離れちまうからだろ」
有人は考えを巡らせた。確かに卒業したらそう簡単には会えなくなるだろうな。
「よし、やってみようよ」
「有人。本気で言ってんのかよ」
朝日が笑った。首を縦に強く振り、つられて有人も笑った。この感じが懐かしかった。子供の頃に戻ったみたいだった。
「朝日、俺ね小説家になりたい」
真っ直ぐに朝日の目を見た。
「夢、決まったじゃん。話すの俺が初めてだろ?」
何でもお見通しなのが香原朝日なのだ。
「頑張れよ。お前ならぜってーなれるよ」
朝日は有人の髪をくしゃくしゃと触った。それからポンと一回叩いた。夕日が照らした朝日の髪が綺麗だった。
「うん。絶対になってみせるよ」
帰ろーぜ、と朝日の声に続いて歩き出した。その時後ろから大きな声で呼び止められた。
「三好、香原。落ち着いて聞いてくれ。河野がトラックにはねられて病院に搬送された。お前らもすぐ向かってくれ」
言ってる意味がわからなかった。理解できたのは目の前に立っているのが担任の先生であることと、
久しぶりに聞いた葵の名字だけだった。
[3]
遷延性意識障害。重度の昏睡状態を指す症状の事で世間的には植物状態と言われている。葵はまさにこの状態だった。仰向けで寝ている葵の両脇に両親が居た。久々に見たその姿は顔面蒼白、以前との姿とは大きく異なっていた。2人は会釈をする余裕などなかった。後ろには銀二の姿もあった。駆けつけてきたのだ。
「葵は」朝日が口を開いた。
「目を覚まさないんですか…」
目線を横に座っている医師に向けた。ラグビーマンの様な大柄の男だった。
「植物状態と言っても脳死しているわけではありません。彼女の場合は正面衝突に等しいはねられ方でしたので、脳にダメージが届いてないのが奇跡としか言いようがありません。ただ…」
医師は眼鏡を外して机に置いた。
「意識が戻るとははっきり言えません。何十年もこのまま目を覚まさない可能性も大いにあります。最悪の場合安楽死を選ばざるをえないケースも」
どうしてこんなに淡々と話せるのか、有人には理解できなかった。
「ふざけたこと抜かしてんじゃねえよ… 何でだよ!何で助けらんねーんだよ。あんた医者だろ?とっとと葵起こせよ!いつものようにさっきまで一緒に居たんだよ!ふざけんなよ」
朝日の目からは大粒の涙がこぼれ落ちていた。そして自然と有人の目からも。銀二も黙っている。こんな時どう声をかけたらいいのかわからないのかもしれない。実際、有人もそうだった。激しい喪失感。自分の中の歯車が狂いだしたような感覚だった。
葵。ひまわり畑どうすんだよ。そう言いたかった。
しばらくして、家族以外は退室することになった。有人達は帰ろうとしていた。
「飲むか?」
コーヒーを差し出してきたのは銀二だった。
「何であの子がこんな目に遭わなくちゃならないんだろうなあ」
銀二は悔しそうな表情を滲み出した。自分の孫のように可愛がっていた葵だから、そう思うんだろう。
「銀じい。俺らひまわり畑つくりてーんだ」
朝日が口を開いた。
「ひまわり畑?急にどうしたんだ?」
「葵がさ、卒業して離れてもここにいたって証明をしたいって。今日の朝その話したんだよ」
何でだよと力なく呟き、再び朝日は泣き崩れた。
「うちの畑を使えばいい」
銀二が言った。朝日は顔を上げて銀二を見た。
「使ってないスペースが随分あるからな。大変だぞ。畑は」
「ありがとう銀じい…葵がいつ起きてもいいように俺らで咲かせて見せるよ」
朝日は目線を有人に移した。有人はすでに泣き止んでいて、真っ直ぐに朝日を見ていた。力強く2人は頷いた。言葉は発しなかった。
「社長。お食事の支度が整いました」
「松原君、その呼び方はやめろと言ったはずだろう」
「お言葉ですが社長、先週はそのように呼べ、と」
「今週は気分が違うのだ。そうだな…今週は事務長で頼む」
「かしこまりました、事務長」
秘書の松原は部屋を後にしたあと、首を傾げた。
勝原五郎は事務所の最上階にいた。6階から織り成すその建物は、表向きにはKOYO化粧品 と書かれた化粧品メーカーの大手企業。しかし実際にはそのような仕事は一切していなかった。バックには大物の政治家、松本憲広がいた。いわゆる闇企業。裏社会。
一般には公表できぬような内容の仕事をしていた。
何かあっても金で揉み消す。金は天下の回りものとは言ったものだったが、実際のところ金は松本のまわりものだった。松本憲広の父 隆文が、勝原と非常に親しかった。2人が明るみに出るような仕事をしていなかったことは言うまでもない。しかし、隆文が心臓病を患い、息子である憲広が後を継ぐ事になった。憲広はまだ30代。隆文の生前も父の権力を利用し、色々と悪事を働いてきた。最強最悪と呼ばれる権力社会の2人が手を組んだのだった。
「オヤジ」そう声をかけ部屋に入ってきたのは松本憲広だった。この親父という呼び名は父という意味ではなく、勝原が憲広に指示した呼び方だった。この呼び名だけは週替わりではなかった。
「どうしたんだ憲広、ノックくらいしないか」
「あー悪ぃ」
どうしたんだ?と勝原は椅子を回転させ憲広の方を見た。
「駐車場が欲しい。この辺で敷地を確保して欲しい」
「お前、また車を増やしたのか」
「いいだろ、気分によって乗る車がちげぇんだよ。
金ならいくらかかっても構わねぇ。どこかねぇの?」
勝原はため息をついた。それは父代わりとしてのため息なのか、憲広の人間性に対してのため息なのかはわからなかった。この男がこうゆう人間なのは今に始まったことではない。
「この付近だと、少し離れるが大きなネジ工場があったな。古い、街の工場ってとこだ」
憲広がにやと笑った。「決まりだな」
「わかった。すぐに準備させよう」
憲広が部屋を出て行った後、勝原は周辺の地図を開いた。そして、1つの場所に赤い丸をつけた。
その場所には「香原ネジ工場」と書かれていた。
ただいまっと言いかけた所で朝日は異変に気付いた。見慣れない革靴が玄関に2つ。客人か?珍しい。
「親父ーただい…
「ですからそのような事は!私は何も知らされておりません」
朝日の声は父に掻き消された。居間には、朝日の父 要と黒っぽいスーツに身を包んだ2人組がテーブルを囲んで座っていた。かなりガタイがいい。
「朝日、帰ったか。お前は2階に行ってなさい」
要は下を向いたまま言った。何かを察した朝日はすぐに部屋を出た。ドアの向こうでしゃがんだ。無論、会話は聞こえる距離だ。
「ですから、何度も言うようにね、ここのね、この土地の前の所有者がね、ウチにお金を借りてたの。何度も言ってんでしょ?」
どうやらスーツの男が喋っているようだ。もちろん表情は見えない。
「そんな話、私は聞いたこともありません。前の所有者は私の父です。香原家が代々継いできた工場なんだ、どこの馬の骨かわからんあんたたちにやれるか!」
要の反論は、まるで自分の娘の結婚相手を門前払いするような台詞だった。
「あんたさ、ウチってどこか知ってんの?」
「知るか、名乗っても無駄だぞ、私はこんな話聞いちゃいない」
「勝原だよ、勝原一派。聞いたことあんだろ?勝原五郎と松本憲広ーーーお、その顔は知ってるって顔だな」
勝原五郎?勝原一派?朝日は聞き覚えがなかった、が、要の反応は違ったようだ。
「か、勝原…そうか。そーゆーことか。
なぜ、ウチに目をつけたんだ」
「どーせ、あのバカ政治家のわがままだよ、気の毒だけど」
初めて聞く声だった。もう1人のスーツの男か。
「家族は…家族には手を出さないな?」
「俺らは知らねぇよ。あんたはただ黙って土地を渡しゃいいわけだ」
話が見えてこない。土地を渡す?ウチが?なんでそんなことになってんだよ。
「わかったから出て行ってくれ…ただし、家族に危害は加えないと約束してくれ」
おいおい何言ってんだよ親父。
「一応、上には話しといてやるよ」
そう言い残し、立ち上がる音が聞こえた。朝日は気づかぬうちに飛び出していた。
「待てよ…何ふざけた事抜かしてんだよてめぇら。
ウチの工場をあんたらなんかにやるわけねぇだろ
出て行け!2度とくんな!大体親父も親父もだよ!
なに易々と手放してんだよ!俺が継ぐって言ったの忘れたのかよ!おい!親父!」
その瞬間、要は朝日を平手打ちした。パァンと甲高い音が鳴り響いた。
「ガキは…黙ってろ…」
朝日は精一杯その言葉を捻り出したように思えた。これ以上何も言えない、言ってはいけないと思えた。
「はいはい、家族ごっこはもういいだろ。じゃあな香原さん、また連絡するよ」
朝日は堪えた。ここで俺が手を出したら要が耐えた意味がない。堪える勇気を父親の為に使った。
その時だった。
「ふーん、あんたら勝原一派の者なんだ」
見慣れない声が聞こえた。
そいつもまたスーツを纏っていた。メガネをかけており、茶色い髪は朝日より長く、少しパーマがかかっていた。
「誰だてめえ?」
大柄なスーツの男がまくし立てた。
「ただの従業員ですよ、ねぇ工場長?」
そう言うと男は要の方に目線を向けた。要は驚嘆していたが、ひとまず頷いた。
なんだよ、と吐き捨て勝原一派の男たちは車に乗り込み去っていった。
茶髪の男がガレージを潜り、こっちに近づいてきた。
「お久しぶりです、要さん」
男はメガネを外しながら、父の名前を呼んだ。朝日には見覚えがない顔だった。
「湊です。歌原湊です」
要は開いた口が塞がらなかった。あ、あ、と声に漏らしている。
「湊くんか。あの湊くんなのか」
振り絞るように要が言った。
「誰だよ、この人」
朝日は後ろにいた要に促した。
「ええ。俺の名前は歌原湊。あなたの父親、要さんは俺の命の恩人だ」
朝日は理解に戸惑った。
後ろで要が泣いているのがわかった。
湊がまだ中学生の頃だった。刑事だった父 咲斗は勝原一派の動向を探っていた。その頃から松本、勝原が手を組んだ情報が回っており、咲斗が率いる班が極秘で捜査に当たっていた。咲斗と要は幼稚園からの幼馴染だった。ある日、2人で飲みに行った夜、咲斗は打ち明けた。
「要、俺ぁ死ぬかもしれねえ」
空のグラスに瓶ビールを注ぎながら話した。
「また危ねぇ捜査なのか」
「あぁ。今回はちっとばかしやべぇかもしれねえな。相手はあの勝原一派だ」
グラスに残ったビールを飲み干し。ふうっと息を吐いた。
「勝原一派…バックにゃ政治家がついてるってあの大物か」
「あぁ。もうあいつらは野放しにできねえ。俺が止める。止めてやる」
咲人がお姉ちゃんビール、と店員を呼んだ。決意に満ちた友の目を要は見つめていた。
「そーいや、お前んとこのガキは元気か。なんつったっけな」
「湊だ。もう中学生だぜ」
「そんなに大きくなったのか。よく野球してやったぜ俺も」
「あぁ。お前にはほんとに感謝してるよ」
「おいおい、まるで永遠の別れみたいに言うなよ」
要は笑い飛ばしたつもりだった。だが、咲人の反応はまんざらでもなかった。
「おい咲人、死ぬことばっかり考えてんじゃねぇよ。生きて帰る、まずはその事じゃねぇのか?お前は刑事だろ!?絶対生きて帰ってこい」
「あぁ。ありがとう」
要は力なく吐いた友の言葉に、何も返す事ができなかった。テーブルには新しい瓶ビールが残っていた。
それから翌週の事だった。極秘で動いていた歌原班は全滅した。事務所に乗り込む日取りが漏れており、射殺された。発砲したと思われる勝原一派のメンバーも忽然と姿を消していた。恐らく、勝原五郎によって消されたのだろう。実質的な証拠がないため、勝原一派の1人として逮捕される事はなかった。もちろんそこには松本による圧力も関わっていたのだろう。無念だった。友の為に何かできる事はなかったのかと考えれば考えるほどに後悔の色が濃くなる。
あの時、止めていればと。たらればの話だ。
後日、要が歌原家に訪れた。幼い頃に母を亡くしていた湊は親戚に引き取られる事になっていた。
強く生きて欲しい、そう思った。しかし事件は起きた。引き取り先に勝原一派の手が回っていたのだ。
その家は全焼。間一髪逃げ遅れる前に要が湊を助け出した。そして、火を放った勝原一派の者は火の海に身を投げた。自ら証拠を抹消したのだ。要は湊に一緒に暮らそうと持ちかけたが、これ以上迷惑はかけられない。自分と居たら、要さんまで奴らに狙われると言い捨て、姿を消した。
あれから5年が経った今、湊が目の前に現れたのだ。
「朝日だったっけな、君」
湊が問いかけた。
「あ、あぁ。何で俺の名前…俺、あんたと会ったことあんの?」
「うん、何度かね」
要さんと、湊が呼びかけた。
「さっきの話聞きました。やっとあなたに恩返しできる時がきた。俺が何とかします」
「何を言ってるんだ。君には関係ないよ。ここで聞いたことは忘れなさい」
「要さん、あなた病気を患ってるでしょう?それも随分前から。見たところ、足と、もしかしたら心臓病もじゃないですか?」
要は狼狽を隠せなかった。
「俺がこの5年間。あなたの事を見てないとでも?
大丈夫です。これは俺の問題です。俺がケリをつけます」
「あんた」朝日がそこまで言ったところでくぐもった。それから「何者なんだ」と続けた。
湊は再びメガネをかけて、朝日を見た。
「父の仇を討つ為だけに存在する、ただの詐欺師といったところかな」
詐欺師。朝日はその言葉に何故か心が高揚するのを疑問に思った。
[4]
その後、朝日は湊に連れられ近所の喫茶店に入った。湊はコーヒーを注文した。朝日も同じもので、と言った。
「ほう、朝日、コーヒー飲めるようになったのか」
「何兄貴面してんだよ。こっちはあんたのことなんてちっとも覚えちゃいない」
店員がコーヒーを2つ持ってきた。
「なんだよ、こんな所に呼び出して。今日はいろいろな事が起こりすぎて頭がついていってねぇんだよ」
湊がメガネを外し、じっと朝日を見た。
「朝日、俺は勝原一派を潰す」
「あんた、何でそんなに俺らの肩持つんだよ。ウチの工場が潰れようが、あんたに何の関係もねえだろ」
朝日はコーヒーをすすった。少し苦かった。
「もちろんお前は知らないと思うが、俺の親父は勝原一派に射殺されたんだ。刑事だった親父が勝原を挙げようと乗り込み殺された」
朝日は驚嘆した。思いもしない言葉が聞こえたからだ。射殺?すぐには情景が浮かばない。
「だから俺は、親父の敵を討つ。その為に数々の詐欺で人を騙してお金を集めてきた。決して許される事じゃないが、あいつら殺れたら捕まったっていいんだよ俺は」
「おいおい、思ったよりヘビーすぎてついていかねぇよ。詐欺ってあんたほんとだったのかよ」
「あぁそこでだな俺はまずーーー
そこまで話したところで朝日の声に話は途切れた。
あるとっ と呼んだ先には大人しそうな顔の少年が立っていた。
「有人、何してんだよ」
朝日は駆け寄り、声をかけた。
「朝日こそ何してんだよこんなとこで
あ、どうも」
後半は湊に向けてかけられた言葉だった。朝日が有人を指差し、俺のダチと紹介した。
「あ、その本読んでるんですか?僕も読んでるんです!すごく面白いですよね!」
湊のカバンの隙間から覗いた本を見て有人が言った。
「あーこいつね、本には目がないんだよ」
「どうりで。この本は俺もお気に入りだよ」
「でも僕の1番は聖者の行進って本なんですよ」
有人の言葉に湊がぴくりと反応した。そそくさとコーヒーを口に含んだ。
「知ってますか?聖者の行進」
「聞いたことないな、今度読んでみるよ」
そう言い捨て湊は窓の外を見た。
店員が有人の分のコーヒーを運んできた。
「有人、今まで病院に?」
「うん。銀じいと別れてからもう一度葵のとこ行ってたんだ。葵のお母さんたちもしばらく寝泊まりするみたい」
「そっか…」
「何?友達が病気なの?」
重い口を有人が開いた。
「今日ね、事故に遭ったんです。トラックにはねられて…今は植物状態ってやつなんです。目覚めるかわからないって…」
「トラックにはねられて、即死じゃないだけマシだ」
「で、湊さんつったか。本題は?有人も居ていいよな?」
「そうだね。信頼できる友達みたいだし」
なんのこと?と聞く有人に、朝日は事情を話した。ただ、関係のない有人を巻き込むつもりはなかった。目の前に詐欺師がいると知った有人は当たり前の反応を見せていた。
「ここまでが、俺と朝日の話だ。ここからが本題。俺はこの間、ある1人の女性に種を蒔いた。俺が調べた限り現在、勝原一派が潜む事務所は公にはKOYO化粧品って化粧品メーカーの企業に見せてる。もちろん、そんな会社存在しないし、商品も実在しない。まあ俺が踏んでるのは恐らく麻薬などの密売取引が裏で主になってると思うけど」
「種を蒔いたってどーゆー意味だよ?」
「いつもの詐欺の手口で、ある女性に近づき、俺がKOYO化粧品の社員のフリして実演販売を行い、契約をとった」
有人が口を挟む。
「ちょ、ちょっと待ってください。契約をとったって、実際に商品もないのにどーやって?」
「そんなの適当に作ったに決まってるだろ。何のために稼いだ資金だと思ってる。俺は保険会社から芸能プロダクションまで幅広く様々な役を1人でこなしてきた。その女性はすぐに料金を振り込んでくれた。これが好都合だった。こちらも早く動き出せる」
「どーゆー意味だ?」
朝日が身を乗り出して続きを求める。
「初めはきっちり無料サンプル品を送る。その後に俺が作ったKOYOと印の入った商品を送る。その後は何も送らない。さぁおかしいと思った女性はどうする?」
「初めに商品を発送してるし、詐欺とは考えにくい。歌原さん名刺は渡しましたか?」
有人が何かを閃いたように聞いた。
「もちろん。KOYO化粧品の住所付きでね」
「なら、歌原さんに電話がかかってきて、それを出なければその女性は直接会社に伺いに行くのが妥当ですね」
湊がパチンと指を鳴らした。その返答を待っていたといった表情だった。
「有人くんだったかな?君は詐欺師に向いてるよ」
「あまり嬉しくはないですね」
「なるほど。種を蒔いたってそーゆーことか」
朝日がようやく話を理解したようだ。すでに湊はサンプル品と第一の商品発送を終えていた。
「てことは、後はその女性が動くのを待つだけって事ですね。」
「うん。そこで朝日、君に協力してほしいんだ」
「当たり前だよ、ウチの工場は俺が守ってみせる」
朝日が力強く答え、ありがとう、と湊が言った。
「ねぇ朝日」
有人がささやきかけるように名を呼んだ。
「まさか俺は危険だから何もしないでいいなんて言わないよね。関係ないとか」
「あぁその通りだよ。これは俺の家の問題だ。だからお前にはーーー
「いっつも助けてくれてたよね」
言葉を遮った。えっと朝日は漏らした。
「今度は俺が助ける番だよ。それにね、もし葵が起きてたら、葵もそう言うと思うから」
「有人。どんなに危険かわかってんのか?」
「わかってるよ。でも逃げちゃダメだ。明日だけが未来じゃない。未来が迎えれるように、明日を生きるんだよ」
「聖者の行進の言葉かい?」
「湊さん。はい。なんで、わかったんです?」
「顔でわかるよ」
そう言われ有人は頭を掻いた。
「よし、それじゃ決まりだ。俺たち3人で、運命を変えるぞ」
「事務長、FAXが届いていますが」
「松原くん、今週は室長がいいな」
「かしこまりました。では室長、FAXが届いておりますが」
「FAX?内容は」
「はい。 この度は突然の差し出し申し訳ございません。実は折り入ってお願いがございます。当校の生徒達で2名、入院の為に先日行われた企業見学に行き損ねたのです。もし先方がよろしければ、ご都合のよろしい日取りで見学に行かせて頂きたいのですが、無理を言って申し訳ありません。お時間がおありな時にお返事をお待ちしております。
椚ヶ丘高校 3-3担任 出月 拓也
と、書いております」
勝原は大きく腕を組んだ。
「松原くん。君はどう思う?」
「はい。ここでお断りするような事があれば近隣であらぬ噂が立つ恐れもございます。何しろ断る理由がありませんので」
「君もそう思うか。よし、わかった。了承の方向で返事を出しておいてくれ。」
「かしこまりました」
それと、と勝原は付け加えた。
「担当にはあいつを使え。最近入ってきた若いのだ。柴田といったか」
「柴田清美ですね。かしこまりました」
致し方ないと、勝原は思いながらも、胸にわだかまりを感じた。
「葵、調子はどーだ?おっ元気そうじゃねーか。良い顔して眠ってら」
病室に入るなり、朝日は毎回このような事を口にする。続いて有人が入ってきた。この時間は珍しく両親もいなかった。一度家に帰っているのかもしれない。あの日から時間が経っていた。2人は並行して、畑も耕し始めていた。
「あおいっもうすぐ種植えるからな。待ってろよ、満開に咲かせてやるからよっ」
朝日の呼びかけにもちろん、葵は答えない。人工呼吸器を始め、様々な機会音だけが虚しく室内に響き渡る。
「葵。目ぇ覚ませよな。俺ら絶対帰ってくるから、ちゃんとその時まで待ってて欲しいんだ。
おかえりって笑って迎えて欲しいんだ」
「有人… 俺らがしんみりしてちゃ、埒があかねぇだろ。さぁ、例のアレ、飾ろうぜ」
「うん。そうだね」
2人は枕元に小さな植木鉢を置いた。そこには小さなひまわりがたった1輪、咲いていた。それは葵がひまわり畑を作ると言いだすきっかけになったあのひまわりだった。鉢に植え替えたのだ。
部屋を後にする前、2人で声を揃えていった。
「いってきます」
有人、湊、朝日の3人は集まっていた。これからいよいよ運命の時を迎える。それぞれの思いが交錯し、1つになり、この時を迎えた。
「よし、行くぞ」
「そーいえば湊さん、あの女性からの着信は?」
「いや、それがないんだ。ただ、向こうからの返答で日時を今日に指定してきた。俺らとしてはそれを受けるしかない」
まさかこんなに早く実行の機会に移る事ができるとは思えなかった。湊は少しだけ嫌な予感がしていた。
ロビーを抜け、受付に着いた。「椚ヶ丘高校の者です。この度は無理なお願いをお受けした頂き、ありがとうございます」
お待ちください、と声をかけられ、しばらくすると、細身の若い女性がこちらに向かって歩いてきた。企業見学の方ですね、と微笑みを見せた。
「急なお願いで申し訳ございません。本日はよろしくお願いいたします」
お願いします、と2人も頭をさげた。
「ふふっ、堅苦しいものはなしでいいですよ、社長から了承を得ているので、ごゆっくり見学なさってください。」
女性の名は柴田清美と言った。
有人は名の通り清く美しい女性だと思った。黒髪のロングヘアーに、決して派手とは言えない化粧。絵に描いたような清楚系の女性だった。
「ではまず、当社の企業理念など、軽い商品説明に参りますので2階の会議室に参りますね」
柴田に連れられ3人は階段で2階に上がった。社内は一見普通の会社に見えなくもないが、目を凝らして見ると、皆がこちらに眼差しを向けている。そう、疑いの眼差しだ。まるでこの日の為にこれだけの人員とレイアウトと整えたように見えて仕方がなかった。2階に上がり、会議室に着いた。会議室の名だけあって、それなりに広い部屋を用意したようだ。
「では、こちらでかけてお待ちください。すぐに戻ります」そう言い柴田は一度部屋を出て行った。
「どう思います?湊さん」
口を開いたのは有人だった。
「うん。不自然すぎるな。この部屋もそうだし、まず今の時間だ。怪しい客人を野放しにしすぎだ」
「罠ってことか?」
「鋭いな朝日。かもしれない」
その時、有人が何かに気づいた。部屋の隅に置かれていた段ボールの山だ。1番上の箱だけ無造作に開いている。恐る恐る有人は近づいていった。2人が止めたが有人には聞こえていない。
開き口に手をやり一気に箱を開けた。あっ、と声を漏らした。そこにあったのは大量の大麻だった。
薬物、いわゆる麻薬だった。
みなとさんっ と力強く呼ぶ。すぐに近寄ってきた湊は袋を1つだけ取り、ポッケに入れた。
「よし、お前ら座れ。そろそろ柴田さんが帰ってくるだろう」
恐ろしく冷静な天才詐欺師の言葉には説得力があった。湊に促され席に着くと、ほぼ同時に柴田が帰ってきた。
「お待たせしました。今回の件を了承したウチの社長から挨拶をしたいそうなので、一度社長室に向かいますね。移動ばっかりさせちゃってすみません」
どくん、と心臓が高鳴った。有人の足は震えていた。まさかさっきの行動がばれたのか。見られていたのか。もしそうだとしたら殺されるのか。今まで感じた事がない死の恐怖を全身に感じていた。自然に足が震え力が入らない。立てない。
「有人、こんくらいで足痺れさしてどーすんだよ」
ふと、朝日が言った。有人の震えに気づいていたのだ。それから、大丈夫だ。小声で言った。
社長室に着き柴田がコンコンとノックした。
「社長、お連れしました」
太い声で入りたまえ、と聞こえた。
「本日はどうも、ようこそお越しいただきました」
そこには勝原五郎が座っていた。言葉には出来ない威圧感があった。
「こちらこそ、急なお願いで申し訳ございません」
湊が頭をさげた。いや、今は出月先生だ。
「あなたがたをこの部屋に呼んだのは他でもない」
その時、ガチャと部屋の鍵が閉まる音がした。気のせいと思いたかった。
「会議室で段ボールから何かをとっただろう。それを出したまえ」
ぴくっと湊が眉を動かした。やはり見られていたのだ。しかしどうやって?
「隠しカメラでもつけてたのかい?勝原さんよお」
湊の口調が変わった。出月先生から詐欺師、歌原湊の目に変わっていた。
「ようやく本性を表したようだね。何者だお前たちは」
勝原が立つと同時に机の隅に隠れていた細身の男が出てきた。手には拳銃を持っていた。
「俺は、警視庁捜査一課にいた、歌原咲人の息子だ。お前が殺した、歌原刑事の息子なんだよ」
いつものような冷静さはそこにはなかった。気付けば隣にいた柴田も拳銃を構えていた。
「うたはら、さくと…はて、そんなやつに出会ったことあったかのお。いちいち刃向かってきたやつの名前など覚えておらんわ」
「てめぇ…で、この薬物についてはどう説明すんだ」
「外国だよ、国を超えて取引きしたほうが高値で売れるからなあ」
「ほう、やっぱり薬物か。もういいわかった」
「話はそれだけか、つまらんかったな、殺せ」
みなとさんっと言いたかった。声にならなかった
しかし次の瞬間、ダァンと鈍い音が鳴った。ドラマで聞いた事がある音だった。銃声だった。衝撃で目を閉じた2人は、痛みがないことに気づき、恐る恐る目を開けた。そこには、前にいた細身の男の左足が撃ち抜かれている姿があった。何が起きたかわからなかった。湊さんもとりあえずは無事のようだ。
有人は周りを見た。驚嘆した。柴田清美の銃の先から白い煙が漂っていた。銃先は無論、前を向いている。
「突入してくれ」
低い声だった。無線を手にした柴田清美の声が響いた。次の瞬間、鍵がかかっていたはずのドアから数人の警官が入ってきた。警官は松原と呼ばれていた細身の男と、顔面蒼白の勝原五郎を取り押さえた。
何が起こったのかわからなかった。
「自分で認めちまったなあ、薬物だって。
騙される方が悪いんだよ勝原さん」
眼鏡をかけた湊がいった。
「助かったよ、塁」
るい、と言ったその先には柴田清美の姿があった。
「2人とも、怖い思いさしてすまなかったね。警視庁捜査一課の 星野塁です。さぁ、ここは大丈夫だから外に出よう」
「湊さんっどーゆう事ですか」
朝日が投げかけた。
「だから、詐欺師ってのは頭使って騙して勝負すんだよ。騙して悪かったな。星野は俺の仲間だ」
俺の仲間って…朝日はくぐもった。
それからもう1つ、と言って湊が口を開いた。
「俺は詐欺師じゃねぇ、もうそっから嘘だった。
警視庁捜査一課 歌原 湊だ」
目の前で見せられた警察手帳は本物かわからなかった。何しろ本物を見た事がなかったからだ。
それからまもなくして、外出先から帰宅した松本憲広も逮捕された。歌原 湊、星野 塁らのお手柄だった。
「待って待って湊さん、じゃああの種を蒔いたって言ってた女性は」
「あぁ、ありゃ本物の詐欺師だよ。あいつを止めるために詐欺師 前田司郎として、そして今回の件の種蒔きに使ったんだ。警察としてな」
詐欺師の捜査として自らが詐欺師になりすまし、わざと勝原一派に目を向けさせたのだ。
「あぁ、ちなみにちゃんと俺に着信がきたよ。商品が届かないってね。あいつは保険会社を偽っての詐欺の常習犯だったからな。商品が初めに届くうちに詐欺だなんて気付かなかったんだろ」
決定的な証拠がありその女は、川原美緒は逮捕されたらしい。
「お前らまで巻き込んで、騙して悪かった。敵を騙すにはまず味方からって言うだろ?」
「それにしたって、星野…さん?あの人はどうしててここに」
「潜入捜査だよ。今回の件で俺が動くのと同時に新入社員を偽ってKOYO化粧品に入り動向を探ってたんだ」
そうだったんですかと、2人は言い放った。
「朝日、これで要さんとこの工場は大丈夫だ。安心しろ」
そう言い湊は朝日の頭をくしゃくしゃと撫でた。
だから兄貴面すんなよっと言いたかった。だが言葉にならなかった。涙声で ありがとうっ…と漏らしていた。湊は微笑み、歩いて行った。
「塁、俺は勝原殺らなくてよかったよな。これが正解だよな」
パトカーに乗り込み運転席の星野塁に問いかけた。
「ええ。ただ、私にはあなたのように父を殺された経験がないので、何とも言えません。私がその立場なら、真っ先に発砲していたかもしれない」
「いや、多分これでいいんだ。親父は敵討ちなんて望んじゃいなかったんだと思う。息子として父の仇を殺す事より、後輩刑事として、先輩が挙げれなかったホシを挙げる。これで正解なんだよきっと」
「さすがに言葉が上手いですね。また書き始めたらどうですか?昔みたいに」
「書く?あぁーーー昔の話だよ」
星野は静かに笑いアクセルを踏んだ。
あの事件から早いもので1年が経とうとしていた。季節は夏真っ只中、朝日は希望通り香原ネジ工場で働き始めていた。毎日顔のどこかが汚れている。
有人は文系の大学に進学していた。自費出版の本を何冊か出し、小説家への道を進み始めていた。2人は月に一度のペースで会っていた。夏前までは週に一度のペースで例の畑で会っていたが、その必要もなくなった。銀二が譲ったあの小さなスペースから生まれたひまわり畑に、満開とは言えないが少しずつひまわりが咲き始めたからだ。やっと歩き始めた。そんな気分だった。この調子で満開にする。そうすれば葵が目覚めると何故か信じていた。そう信じたかった。
その日に2人が会ったのは病院から連絡があったからだった。葵の容態が急変したらしい。最悪の事を覚悟していた。病院で待ち合わせをした2人は実に1ヶ月振りだった。言葉は交わさず、行こうか、とだけ朝日が言った。頷き、有人も続いた。
ノックをし、病室に入る。2人は驚嘆した。ベッドの上には座り込んでいる葵の姿があった。
え…?あ…
声にならなかった。声を出したというよりは声が漏れたというような感覚だった。全身の神経に血が滾るのがわかった。次いで、身体が震えた。
ベッドの脇では葵の両親たちが声をあげて泣いていた。よかったあよかったあと嗚咽を漏らしながら泣き叫んでいる。
医師がこちらに気づいて微笑みかけた。話してあげてください。と、そう問いかけているようだった。
2人はゆっくりベッドに近づいた。まだ頭がぼーっとしてるのか、葵の表情に変化はない。
ゆっくりと2回瞬きをした後、2人を見た。
「あ…ると… あさ…ひ…」
精一杯の声で名前を呼んでくれた。その目はじっと2人を見つめている。
「ねぇ…ひまわり…咲いた…?」
涙声とはこの事を言うのだろう。声をかけたかったが声が出なかった。膝をつき、ぎゅっと手を握った。
「あぁ…咲いたよ。お前のおかげだよ葵。おかえり…」朝日が言った。
「えへへ。よかった、ありがとう」
そう言うと葵は再び横たわった。それは眠くなり、寝たと言うには少し表現が違った。正しい表現としては倒れた、そうだった。
あおいちゃんっ と医師がすぐに声をかけ何人かのナースを呼んできた。すぐに手術室に運ばれていく。
いや、待てよ。今起きたじゃねーか。葵。なあ。
うわぁぁぁぁと、両親の泣き声が病室に残った。
心停止だった。脳に血液が回らなくなり、完全に癒えていなかった傷口が開いたことが原因だった。
葵の延命措置は丸1日に渡って行われた。担当医師は最悪の場合を覚悟して欲しい、と告げた。
植物状態の人間は、誰かの問いかけなどでぴくっと指が動いたりすることがあるらしいが、その現象の正体は筋肉の萎縮によるものであり、自らの意思で行ったものではないという。葵の場合、意識がはっきり戻り、さらに言語まで話すというのは今までにはない状態だった。
心停止から1日が経とうとしていた頃だった。葵は息を引き取った。医師によると、最後に君たちにお別れを言いたかったのだと思う、とのことだった。前例がないため、あり得ないこの現象はそう片がついた。覚悟はしていた。最悪の場合は覚悟していた。しかし、どこの世界にも人の死を快く受け入れることが出来る人間など存在しないのだ。
突然襲ってきた別れの時に心が追いつかない。
うわぁぁぁとただただ泣き叫ぶ事しかできなかった。
病室では1輪のひまわりが柔らかな風に少しだけ揺れていた。
[終]
ひまわりには様々な花言葉がある。好きな人に想いを伝える「愛慕」雲の上の人へ「あこがれ」
卒業などで別れる人達への「光輝」
1輪で咲くひまわりは滅多にない。
葵の式は親族による密葬で行われた。最後に会ったのは、病室で顔に布がかかった葵の姿だった。もちろん身体は高校3年生のままの姿だ。人口呼吸器も何も付けられていない、葵の顔はとても綺麗だった。別れの言葉など、俺たちには必要なかった。
ただ、2人はこれだけは伝えておかなければと思った。
「葵、ひまわり畑。満開になったら見に来いよ」
何かの間違いかもしれない、俺たちだけかもしれない、最後に葵がふふっと笑い、うんっと声が聞こえたような気がした。
それから5年が経った。朝日は相変わらず毎日顔を汚しながら工場に勤めている。親父さんの病気の事もあり、これからは俺が支えると意気込んでいるところだ。有人は小説家になっていた。20歳の時に書いた「君想う花」がベストセラーを記録し、強い人気を誇るほどの有名な作家になっていた。そして、嬉しいことがもう1つ、歌原湊はあの事件を機に、警官を辞めていた。俺にこれ以上の事件は解決できない、と辞表を出していた。そして彼もまた、ペンを執りだしたのは言うまでもないだろう。
歌原湊としてではなく、-美無都-ミナトとして。
その日、有人と朝日はあのひまわり畑に来ていた。
満開に咲いたひまわりは、いつの間にかこの街の名物になっていた。訪れた人は皆、綺麗とつぶやき見とれていた。
「有人、まーた聖者の行進読んでんの?せっかくなんだから君想う花でも読めよな、自分の作品なんだからよ。それか湊の新しい本でも読めばいいじゃん。せっかく復活したんだしよ」
「自分で書いた本読むのってなんだか、恥ずかしいんだよ。それに朝日こそいい加減作業着で来るのやめたら?」
「この格好が1番落ち着くんだよ」
なんだよそれ、と2人で笑った。
「あ、そろそろ戻んねーと。じゃあなあるとっ」
「うん、またね」
手を振り、小さくなる朝日の背中を見届けた後、有人はあるものを本に挟んだ。それは葵の病室で強く咲いていた一輪のひまわりだった。しっかりと挟み、立ち上がった。その時
”いってらっしゃい”
と聞こえた。後ろを振り返る。
「気のせいか」
小さく呟き有人は歩き出した。
満開のひまわりが夏風に揺れていた。
完