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その1 武藤圭介

たいへんお待たせしました。



 停学明けの朝は、爽やかに晴れていた。

 通学路を行くオレの足も軽かった。別に学校が好きなわけじゃない。平均的な学生の例に漏れず、高校通いに惰性以上の理由を見出せないクチだ。でも、今日は特別だった。

 制服の胸元を軽く撫でると、一人ほくそ笑む。

 目前でシャッターを上げた煙草屋のおばちゃんに、不審者を見る眼差しを向けられ、オレはあわてて顔を引き締めた。

 だから、というわけではないが、オレの足は目覚め始めた商店街を外れ、寂れた小道に向かった。

 冴えない飲み屋が軒を重ねる裏路地は、知る人ぞ知る学校への最短ルートである。

 もっとも急ぐつもりはまるでない。今から走っても、まず遅刻という時間帯だ。朝っぱらからムダに片腹痛めるよりは、この秋空を愛でながら悠々と遅刻する方が、人として有意義な時間を過ごせるというものだ。

 縁の白く霞んだ青空を見上げながら、オレは、ぼんやりと昨夜のことを思い出した。

 初めての「深夜バイト」は、大成功だった。

 滅多に人を褒めない「店長」が、珍しくオレを褒めてくれた。バイト代とは別に、特別報酬までくれたのだ。

 オレはもう一度、胸元に触れてみた。

 重く冷たい鉄の感触。「卒業記念だ」と「店長」は言った。

 そうだ――昨日、オレは男になったのだ。

 もう、ただのガキじゃない。校舎裏の不良は卒業だ。

 地べたに座りこんだダチどもに「土産」を見せつけ、そう宣言するつもりだった。何なら、その足で退学してやってもいい。灰皿みたいにあんぐりと口を開けた、悪友たちのアホ面が目に浮かぶ。顔がにやけてくるのが自分でもわかった。まあいっか。ここなら誰に見られるわけでもない――  

 脇道から小さな影が飛び出したのは、その時だった。

 気付いた時には、すでに衝突していた。

 痛くはない。やけにあったかくて、柔らかかった。オレの胸板に飛び込んだ相手のほうが痛かったんじゃないかと思うくらいだ。そのオレが無様に尻餅をついてるのは――まあ油断してたからってことにしておこう。

「あいったぁ……」

 だから、この声もオレのではない。

 オレと同じくらいの年の女のコだった。オレ同様、尻餅をついていた。見慣れないセーラー服のスカートは乱れ、白い脚が覗いている。ギリギリのラインだったが、女のコはすぐさまスカートを直してしまった。チッ、素早い。

 よこしまな視線を遮るように、円盤状の何かが、空から降って来た。

「あああッッ! あたしの朝ゴハン!」

 投げ損ねたフリスビーよろしく、オレの前に墜落したのは、齧りかけのトーストだった。

「ちょっと、どうしてくれるのよ!」

 悲鳴をあげた後、オレに糾弾の銃口が向けられる。

 被害者はこっちだろ。そう言い返そうとして、顔を上げたオレの心臓は、間違いなく止まった。

 大げさじゃなく胸がよじれ、心臓が凝縮する感覚。

 命に関わると感じながらもオレはそのコの顔から、目を外せないでいた。

 ゆるくウェーブのかかった淡い茶色の髪。清楚で整った顔立ち。逆立てた細い眉も、オレを睨む瞳に至るまで。

 それはカンペキ、オレの理想だった。

 いや、それ以上かもしれない。そもそも理想の女がどうとか、考えたこともなかったオレが、この一瞬でそれを確信したのだ。疑問なんて一欠片もない。ヘレン・ケラーも真っ青の奇跡だった。こんな空の下でなければ、落雷に打たれたと言われても、オレは信じたと思う。

「ねえ、ちょっと。聞いてる?」

 唇を尖らせ、見つめてくる。そんな仕草だけで眩暈を覚える。

 舌がうまく動かず、かろうじて首を上下に振ると、女のコの表情が少し和らいだ。

「……あれ、よく考えたら、ぶつかってったのあたしの方か。さっきはゴメンね。痛かった?」

 首を横に振ると、笑顔を浮かべた。

 名前が知りたかった。何故、口が動かないのか。自分が口下手とは思わなかった。ナンパは平気でやれるのだ。

「――いっけない! 急がないと!」

 跳ねるようにして立ち上がると、女のコは落ちたトーストを拾い上げた。食べる様子はもちろんない。 急いでいても、道にゴミを残して行かないところが、育ちのよさを感じさせる。

「ね。キミ、OO高校でしょ? あたし、今日転校して来たんだけど……一緒に行かない?」

 多分、遅刻しちゃうけど。小さく舌を出し、付け加える。

 オレは内心で血の涙を流した。一目惚れの相手と二人きりの通学路。行けるものなら死んでも行きたい。

 だが、ダメなのだ。腰がふわふわして足に力が入らなかった。尻餅の打ち所が悪かったのだろうか。ぎっくり腰だったら恥ずかしすぎだ。それこそ言えるわけがない。

 オレは手を振り、先に行くよう告げた。「大丈夫?」との問いにも親指を立てて応える。そばに居て欲しいのは山々だったが、流石に男のプライドが勝った。

 女は残念そうに背を向け、少し歩いてから、振り向いた。

「あたし、『イザナミ シイカ』。……それじゃ、またね」

 髪が揺れ、横顔が遠ざかっていく。セーラー服の背中が消えるまでオレはまばたきせず、見送った後に大きなため息ををついた。

 まずは学校に行こう。退学なんてとんでもない。そして、あのコのクラスを探し、自己紹介するのだ。弁当を一緒に食べ、下校時は待ち合わせる仲になる。そのうち、自然とデートするようになり、お互いの部屋に行って……

 バラ色の想像は、際限なく広がっていく。いや、これは未来だ。予知だ。運命なのだ。

 それにしても、人生の転機って奴は、こうも連続してやって来るものなのか。それとも昨日の成長が、今日の出会いを運んできたのか。――きっと、後者に違いない。

 口元に笑みが浮かんだ。懐に収めた拳銃の輪郭を探ろうと、胸元に伸ばした指に、異なる感触が触れた。

 ……なんだ、これ。

 それは、フォークの柄のような、細く平たい金属だった。

 冬服の分厚い生地を貫いて、拳銃の引き金を通して、胸に刺さっている。制服はぐっしょりと重い。

 ――なんだ、これ。

 痛みはない。現実感がない。だけど刺されてる。

 左胸――まさかこれ、致命傷なのか?

 そんなはずない。でも、手も足も口も動かない。

 いつ? どこで? 誰に?

 シイカの笑顔が脳裏をよぎったが、すぐに打ち消した。

 そんなわけがない。

 身長から考えても、胸にぶつかったのはシイカの顔だ。手にはカバンしかなかった。シイカのわけがない。

 そうだ。オレはシイカとまた会うんだ。

 こんなところで死ぬわけにはいかない……

 

 

 武藤圭介の意識は、そこで途切れた。

 後には鼻の下を伸ばした、安らかな死に顔だけが残された。 

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