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この体に流れるのは…①

 傷が治り体が元気を取り戻すにつれて、むしろ楠木の心には焦りが積もっていた。


 早朝、農作業へ向かうレーン老人の背中を見送り、一人で古びた書物と格闘する。

 夜は老人の読み聞かせを耳の奥に刻み込み、昼間の復習を繰り返す。


 この一週間、葵はそれらの行動に努力を惜しまなかった。

 元来、人との関わりを好む彼にとって、命を救ってくれた恩人とまともに言葉を交わせない現状は、何より耐え難いものであった。


「はじめまして。私は楠木です」


 本に書かれた文字列をなぞり、たどたどしく、けれど正確に発音してみせる。

 楠木の予想通り、この未知の言語はかつての日本語に酷似していた。

 文法も、語彙も、一週間あれば基礎を理解するには十分だった。


 だが──なぜかレーン老人に言葉が通じない。


 どれだけ模範的に発音をマネしても、レーン老人は「元気が戻ってきた」とでも言いたげな、穏やかで中身のない微笑を返すだけだった。

 自分の声は、この老人の耳にはどう響いているのか。

 言葉としてすら認識されていないのではないか。

 本を開きページをめくる手には迷いがにじみ、文字を追う目はだんだんと横滑りするような感覚に陥っていた。


 しかしその壁は、ある晩一気に解消された。



 * * * *


 

「クスノキ。喋り方が分からないんだろう。」


 その日の晩、レーン老人は帰ってくるなりこう切り出した。


「ここ数日間ずっと不思議だったんだ。なぜクスノキは私達の言葉で話さないんだと。」


 レーン老人はおもむろに楠木の隣の席に座る。

 机の上の書物が取り上げられ、荒い紙のページがレーン老人の無骨な指でゆっくりとめくられていく。


「クスノキは既に私の言葉をほぼ完全に理解しているだろう?だから、多少なりとも既に会話ができると思っていたんだ。しかしクスノキは私が知らない言葉でずっと話していた。」


 楠木はここ連日のレーン老人とのやり取りを思い出していた。

 何度もレーン老人に覚えたての言葉で会話を試みるが、その度にレーン老人は困ったように首を傾げていた。

 やはり、意味は通じていなかったのだ。


 それどころか「私が知らない言葉」とまで言われた。

 楠木の言葉は【同じ言語】と認識すらされていなかったのだ。

 

「しかし、それは私の勘違いだったと今日気がついた。」


 レーン老人は、それまで見ていた本をパタンっと閉じ「ふぅ」と小さく溜息をつく。

 そして楠木に目線を向けた。

 

「クスノキ、これは私の勝手な憶測だが。君は【言葉の発し方】を知らないのではないか?」


「言葉の発し方?」


 黙ってレーン老人の言葉を聞いていた楠木は、思わず素の日本語で素っ頓狂な返事をしてしまう。

 【言葉の発し方】とはなんだ?発音の話だろうか。楠木にはいまいち話が見えない。


 レーン老人は特に気に止める様子もなく、こう続けた。


「あの日君を助けた時。腹を切り裂かれ倒れたままの君を見て、それは驚いたものだ。尋常じゃない量の赤い液体を流して、君は倒れていた。」


 突然、助けられた日の話にかわり、やはり楠木は何がなにやら分からなくなってしまった。

 レーン老人の手が、楠木の腹部に当てられる。

 そこは、あの日楠木が【ツノウサギ】に切られた場所であった。

 

 ふと顔を上げると、レーン老人の片手には小さな刃物が握られている。

 楠木がそれに気がついた時には既に、その刃物は軽く振りあげられ────レーン老人の片腕を薄く切りつけていた。


「ちょ、えっ!?」


 慌てて止めようとしたが、当然間に合わない。

 鈍く光る切っ先が、スルッと老人の腕に滑り込み、わずかに切り裂いた。

 突然の出来事に慌てふためくが、ひとまず止血をしようと切りつけられたレーン老人の腕を掴む。


 しかし、楠木はそこで固まってしまった。


「…血が、出てない…?」


 否、出血はしている。じわっ…と、わずかに切り口に赤色がにじむ。

 しかしそれは非常に微々たるもので、本来この傷の深さならありえない出血量である。


「なんだこれ…」


 その代わり、傷口からは薄黄色い光の粒子のような物が、静かに流れ出していた。

 粒子は重力に逆らい周囲にゆっくりと広がり、やがてある程度のところで霧散していく。


 その光景は、あの日楠木が腹を切られ見ることになった、夥しい出血による生臭さとは比べ物にならない。

 むしろ楠木の目には、綺麗で神々しく映った。


「クスノキ。妙なことを言うようで申し訳ないが、恐らく君の体は私…いや私達と異なるのだと思う。あの日君が傷口から流していた大量の赤い液体は、私たちの身体には非常に微々たる量しか流れていない。」


 老人は服のポケットから包帯を取り出し、手際よく自分の腕の手当をした。傷口を被った包帯に、血が滲む様子はない。

 一方で楠木は、かつてないほどの衝撃を覚えていた。


「私たちの体には、今見せた【魔素】が流れている。」


(体に血が流れていない?今見た光が体に流れている?【魔素】?ってなんだ?)

(血が流れてないのにどうやって生きてる、魔素が血液の代わりって事か?)

(見た目は変わらないのに、この世界の人間は俺が知っている種族とは違うのか?)


 様々な考えが楠木の頭の中を走り去る。

 そんな楠木を見て、レーン老人は申し訳なさそうに俯いた。


「私は、この畑を持つ両親の元に生まれてから、勉強をする機会が無かった。だから私には君の体がどうなっているのか、分からない。」


 しかし、ふっと顔を上げてこう続けた。


「だが、分からないなりにこう考えた。恐らく君は、体内の【魔素】の操作方法を知らないんじゃないか?だから私のように、意味が伝わる言葉を話すことができないんだ。」


 レーン老人は困惑する楠木の手をやさしく握り、自分の喉にあてた。


「私の名前は、レーン・ライナー。この村はずれで農夫をしている。」


 直後、楠木は自分の全身の産毛が逆立つのを感じた。

 目で見ることができたわけではなった。しかし、砂とも湯気とも形容できない【気配】のようなものが、レーン老人の発声に合わせて、喉から溢れて楠木の手に触れたのだ。

 それは、まさにレーン老人の腕の傷から溢れていた光の粒子と同じ気配であった。


「これが【魔素】だ。」

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