第四話 エピローグ ~私が愛したのは、人類の敵ではなく、一人の優しい魔王様でした~
世界を揺るがすほどの轟音と衝撃が過ぎ去った後、テラスには静寂が戻っていた。
立ち込めていた煙がゆっくりと晴れていく。リリアンヌは恐る恐る目を開けた。
そこに広がっていたのは、信じがたい光景だった。
テラスの半分は抉り取られ、見るも無残な姿を晒している。暴走した力の反動で、勇者ユウトは元の平凡な少年の姿に戻り、気を失って倒れていた。
そして――彼女の前には、大きな背中があった。
ゼノ・アークライト。
彼は、全身から血を流し、衣服はボロボロに焼け焦げながらも、仁王立ちでそこに立っていた。その腕は、リリアンヌを庇うように、しっかりと抱きかかえたまま。
「……怪我は、ないか。リリアンヌ」
振り向いたゼノの顔は蒼白で、その口の端からは血が伝っていた。
最強の魔王といえど、自らの魔力を暴走させたアーティファクトの直撃は、無傷では済まなかったのだ。それでもなお、彼は自分のことよりも先に、リリアンヌの身を案じていた。
そのボロボロの姿を見て、リリアンヌの心は決まった。
もう迷わない。もう、自分の気持ちに嘘はつかない。
聖女でも、勇者の婚約者でもない。ただ一人の女性、リリアンヌとしての心が、はっきりと答えを叫んでいた。
「ゼノ様……!」
泣きながら、彼女は再びその手に聖なる力を集めた。今度は、迷いも葛藤もない。ただ、愛する人を救いたいという、純粋で強大な祈りだけがあった。
リリアンヌが持つ聖魔法の全てが、黄金の光となってゼノの体を包み込む。致命傷に近かったはずの傷が、奇跡的な速さで癒えていく。
「リリアンヌ……君は……」
意識が朦朧としながらも、ゼノは驚きに目を見開いている。
その耳元で、リリアンヌははっきりと告げた。もう、この想いを隠さない。
「あなたのそばにいます。あなたの妃に、私をしてください」
その言葉が届いたのか、意識を失う寸前のゼノの口元に、満足そうな、そしてこの上なく幸せそうな笑みが、かすかに浮かんだ。
それが、リリアンヌがこの夜に見た最後の光景だった。
数日後。
意識を取り戻したゼノと、その傍らで片時も離れずに付き添っていたリリアンヌは、連名で人間界に使者を送った。
その内容は、人間界の王侯貴族たちを根底から揺るがす、前代未聞のものだった。
『聖女リリアンヌ・フォン・サンクチュエールを、魔王ゼノ・アークライトの妃として正式に迎え入れる。これをもって、魔国と人間界の間に永久不可侵の和平を結ぶことを宣言する』
王国と神殿は、まさに蜂の巣をつついたような大騒ぎとなった。
「聖女が魔王に誑かされたのだ!」
「魔王の卑劣な罠に違いない! 断じて認められん!」
王城の大広間では、貴族たちが怒号を飛ばし合い、非難の声が渦巻いていた。誰もが、これを魔王の侵略行為の一環だと決めつけていた。
その混乱の最中、大広間の中央に設置された、遠隔通信用の巨大な魔法水晶が、まばゆい光を放った。
そこに映し出されたのは、純白の聖女服ではなく、魔国の高貴な紫色のドレスをまとった、リリアンヌの姿だった。その隣には、傷一つない完璧な姿に戻った魔王ゼノが、静かに立っている。
「皆さん、お聞きください」
凛とした、しかし揺るぎない声で、リリアンヌは語り始めた。
「この決定は、魔王様に強いられたものではありません。全て、私自身の意志です」
広間が、水を打ったように静まり返る。
「私はこれまで、聖女としての役割を生きることが全てだと思っていました。しかし、私はここで真実を知りました。そして、本当に愛する人を見つけました。決められた役割を生きるのではなく、私が愛した方と共に、手を取り合って、真の平和を築きたいのです」
彼女の毅然とした態度に、貴族たちは言葉を失う。
さらに、リリアンヌは衝撃の事実を暴露した。
「勇者ユウトは、魔王討伐という使命のためではなく、私を我が物にするという私利私欲のために戦っていました。そして、魔王城の禁断のアーティファクトを悪用し、その力を暴走させ、聖女であるこの私をも危険に晒したのです。私を命がけで守ってくださったのは、勇者ではなく、魔王ゼノ様でした」
その言葉は、決定的な一撃となった。
聖女を危険に晒した勇者。その聖女を命がけで救った魔王。
この構図を前に、もはや誰も「魔王が悪」という単純な論理を振りかざすことはできない。
最強の魔王と、このまま敵対し続けることのリスク。
そして、彼らが提案する「和平」によって、長年の戦乱が終わり、莫大な利益がもたらされるという事実。
何よりも、人間界の象徴である聖女自身の、固い決意。
それらを天秤にかけた結果、王国と神殿は、認めがたい事実を呑み込むしかなかった。
やがて、歴史的な日が訪れる。
魔王妃となったリリアンヌと、魔王ゼノが見守る中、人間界の王と魔国の代表者たちの間で、永久不可侵の和平協定が結ばれた。
人間と魔族が、互いの違いを認め、手を取り合う。そんな、誰もが不可能だと思っていた新しい時代が、幕を開けたのだ。
魔王城の、かつてリリアンヌがゼノに庇われたあのテラスで、二人は寄り添いながら、生まれ変わった世界を見下ろしていた。
リリアンヌの左手の薬指には、夜空の星々を集めて作ったかのように輝く指輪があった。ゼノからの、改めての贈り物だ。
「本当に、よかったのか。君は全てを捨てて、俺の元に来てくれた」
ゼノが、まだどこか信じられないというように呟く。
リリアンヌは、その胸に顔をうずめ、幸せそうに微笑んだ。
「私は何も捨ててなどいません。本当に大切なものを、ようやく手に入れたのですから」
初めての恋を実らせた最強の魔王と、自らの意志で運命を選び取った元聖女。
種族の壁を越えて結ばれた二人は、その後、末永く幸せに暮らし、二つの世界の平和の象徴として、後世まで語り継がれることになったという。
……一方。
その頃、人間界のとある王国の、辺鄙な片田舎の酒場では。
一人の男が、安酒を煽りながら、虚ろな目で管を巻いていた。
勇者の称号と力を剥奪され、全てを失った山田健太――元勇者ユウトである。
「なんでだよ……なんで、あんな魔王なんかに……」
周りの客たちは、「ああ、また始まった」「魔王に聖女様を寝取られた、可哀想な元勇者様だよ」と、憐れみと嘲笑の入り混じった視線を向けている。
だが、そんな声も彼の耳には届かない。
彼はただ、何度も、何度も、同じ言葉を繰り返すだけだった。
「僕が……僕が先に、好きだったのに……」
その惨めな呟きが、新しい時代の祝福の喧騒の中に虚しく溶けて消えていった。




