第二話: 聖女様おもてなし計画、発動! ~胃袋から掴むのは基本ですよね?~
柔らかな羽毛の感触と、微かに香る高貴な花の香りに、リリアンヌは意識を浮上させた。
ゆっくりと目を開くと、そこに広がっていたのは見慣れた神殿の自室ではなく、天蓋付きの巨大なベッドの上だった。天井には精緻な彫刻が施され、部屋の調度品は一つ一つが王城の宝物庫に飾られていてもおかしくないほどの逸品ばかり。窓の外には、紫色の月が二つ浮かぶ、異様な夜空が広がっている。
「……夢、じゃなかったのね」
呆然と呟く。
魔王ゼノによる、あまりにも突飛なプロポーズと、それに続く監禁宣言。あれは全て現実だったのだ。
慌ててベッドから降り、簡素な聖女服のままであることを確認する。乱暴な真似はされていないようだ。隣室からは、かすかに勇者ユウトが何事か喚いている声が聞こえてくる。彼らも無事らしい。
「リリアンヌ様! 大丈夫ですか!?」
壁の向こうから、戦士の声がした。
「ええ、私は大丈夫です。皆さんは?」
「俺たちもだ。手足は動くが、この部屋から一歩も出られん! 魔王の奴、何をする気だ!」
苛立ったような声に、リリアンヌの胸に再び不安が込み上げる。最強の魔王が、一体何を企んでいるのか。
その時、控えめなノックと共に、重厚な扉が静かに開かれた。
リリアンヌは咄嗟に身構えたが、そこに立っていたのは、玉座の間で見た禍々しい魔王の正装ではなく、黒を基調としながらも、どこか柔らかな印象を与える上質な普段着に着替えたゼノの姿だった。漆黒の長髪は後ろで緩く束ねられ、その絶世の美貌がより一層際立っている。
「おはよう、我が愛しのリリアンヌ」
甘く蕩けるような声で、彼は微笑んだ。昨日の今日で、その呼び方にもう慣れてしまった自分が少し怖い。
「昨夜はよく眠れただろうか。夜着も用意させたのだが、警戒していたようだね。それもまた、君の慎ましさの表れ。実に愛らしい」
「なっ……!」
ゼノは一人で納得したように頷きながら、流れるような動作でテーブルを引き寄せ、その上に銀の食器を並べ始めた。湯気の立つスープ、焼き立てのパン、色とりどりの果物。信じられないほど豪華な朝食だった。
「さあ、朝食の用意ができてある。腹が減っては、愛を語ることもできまい」
「……毒でも入っているのでしょう」
リリアンヌは警戒を解かず、冷たく言い放った。
その言葉に、ゼノは心底傷ついたという顔で目を見開いた。
「毒? とんでもない。俺が愛する君に、そんな卑劣な真似などするものか」
「あなたを信じろと?」
「信じられないのも無理はない。ならば……」
ゼノは真顔になると、恭しくスープ皿を手に取り、その一口を自らの口に含んだ。そして、パンをちぎって食べ、全ての果物を一つずつかじってみせる。
「どうだ? これで安心だろうか。さあ、冷めないうちに」
まるで「お手」を覚えたばかりの大型犬が、褒めてほしそうな目で見つめてくるような、そんな純粋な眼差し。そのあまりに必死な姿に、リリアンヌは毒気を抜かれてしまった。人類の絶対的な敵である魔王が、自分の前で毒見をしている。この状況は、あまりにもシュールだ。
恐る恐る差し出されたスプーンを受け取り、スープを一口、口に運ぶ。
「……!」
その瞬間、リリアンヌの空色の瞳が驚きに見開かれた。
濃厚でありながら、後味はすっきりとしていて、これまで味わったことのない複雑で奥深い風味が口の中に広がる。人生で口にした、どんな王侯貴族の料理よりも、間違いなく美味しかった。
「口に合ったようで何よりだ」
嬉しそうに微笑むゼノを見て、リリアンヌは訳が分からなくなった。
これが、魔王の仕掛ける新たな罠や揺さぶりなのだとしたら、あまりに手が込みすぎている。
その日から、ゼノによる怒涛の“おもてなし”が始まった。
それは、リリアンヌがこれまで読んだどんな騎士物語よりも、ロマンチックで、大げさで、そしてどこかズレていた。
昼食は、城の最上階にある空中庭園で。眼下に広がる魔界の壮大な景色を眺めながら、魔界の希少な食材を使ったフルコースが振る舞われた。
「この『千年鶏のグリル』は、君の健康を考えて俺が自ら捕らえてきたものだ。栄養価が非常に高い」
ゼノは得意げに胸を張るが、リリアンヌとしては、魔王自らが鶏を追いかける姿など想像したくもなかった。
夜には、玉座の間に招かれた。
「君のために、特別な夜空を用意した」
ゼノが指を弾くと、玉座の間の天井が消失し、満天の星空が広がる。そして、次の瞬間には色とりどりの光のカーテンが空を舞い始めた。人間界では極地でしか見られないという、オーロラだった。
「美しい……」
思わず呟くと、ゼノは「君の美しさには遠く及ばないがな」と、どこで覚えてきたのかわからないキザな台詞を囁いた。リリアンヌは、返答に窮してそっと視線を逸らす。
またある時は、魔族の名演奏家たちによるプライベートコンサートが開かれた。奏でられるのは、全てゼノがリリアンヌのために作詞作曲したという恋の歌。その歌詞は、彼女の髪の色や瞳の美しさを、古代叙事詩のような大仰な言葉で延々と讃えるものだった。あまりの恥ずかしさに、リリアンヌは終始うつむいていた。
「これは、樹齢千年の魔界樹から、百年に一度しか採れない幻の果実『月光の雫』だ。君の潤んだ瞳に捧げよう」
「この庭園に咲く『星屑の花』は、全て君のプラチナブロンドの髪を思って、昨夜のうちに俺が咲かせたものだ」
「このショコラは……君の甘い唇を想像しながら、俺がカカオ豆をすり潰すところから手作りした。ぜひ味わってほしい」
ゼノは、どこで仕入れてきたのかわからない恋愛指南書を、一字一句違えずに実行しているかのようだった。そのアプローチは、時に滑稽で、時に子供じみていて、呆れてため息が出ることも一度や二度ではない。
けれど、不思議と嫌な気はしなかった。
彼の行動には、邪気や下心といったものが一切感じられないのだ。ただひたすらに、自分に好かれたい、喜んでほしいという、純粋で不器用な想いだけが、痛いほど伝わってくる。
「ふざけるな! 俺の! 俺のリリアンヌに気安く触るんじゃねえ!」
一方、隣室に“招待”されている勇者ユウトは、豪華な食事時以外は常に喚き散らしていた。
当初こそ、リリアンヌも彼の身を案じていたが、その態度は日を追うごとに彼女の心を苛立たせた。
彼は、リリアンヌが魔王に洗脳されていると思い込んでいるのか、「目を覚ませ!」「聖女としての自覚はないのか!」と的外れな説教を扉越しに叫んでくる。
そして何より、リリアンヌを辟易させたのは、食事の時間だった。
「今日の飯はなんだ! まさか昨日の残りじゃないだろうな!」
「おい、この肉は少し硬いぞ! もっと柔らかい部位を持ってこい!」
魔王城のメイドが食事を運んでくるたび、ユウトは王様気取りで文句を言う。しかし、いざ食事が始まると、誰よりも静かになり、ガツガツと獣のように料理を平らげた。その姿は、リリアンヌが知る「人々を救う勇者」の姿とは、あまりにもかけ離れていた。
彼は、リリアンヌを「魔王を倒せば手に入るトロフィー」としか見ていない。彼女自身の気持ちや、今の状況に対する不安など、考えようともしていないのだ。
――私が結婚するのは、この人なのだ。
豪華な食事を前に、下品な音を立てて食べるユウトの幻影が脳裏をよぎる。
王国と神殿が決めた「役割」。聖女として、その運命を受け入れるしかないと、ずっと諦めていた。
だが、今。
目の前で、自分のためだけにオーロラを発生させ、「風邪を引いてはいけないから」と、そっと自分の肩に上着をかけてくれる魔王がいる。
その瞳には、下心や所有欲ではなく、ただひたすらに純粋な好意と尊敬の色が浮かんでいた。
「……どうした、リリアンヌ。何か、口に合わなかっただろうか」
心配そうに顔を覗き込んでくるゼノ。
リリアンヌは、慌てて首を横に振った。
「いえ、何でもありません。……とても、美味しいです」
そう答えると、ゼノの顔がぱあっと輝く。まるで、ご主人様に褒められた子犬のように。
人類の敵。世界を脅かす絶対悪。
そう教えられてきた存在が、今は自分の言葉一つで、こんなにも嬉しそうな顔をする。
この奇妙な監禁生活の中で、リリアンヌの心は、自分でも気づかないうちに、ゆっくりと、しかし確実に、本来いるべき場所から解き放たれ始めていた。




