異界の終着駅 ~亡き恋人の待つ、永遠の夕暮れ~
電車の車輪が鳴らす規則正しい振動が疲弊した神経を徐々に鈍らせていく。吊り革が擦れる音と窓枠が軋む音が不協和音を奏でていた。
蛍光灯の白い光が向かいの席で口を開けたまま眠る男性の顔を照らしている。
俺、神木ユウトの日常は、ここ数年こんな風に色のない風景の中をただ揺られているだけだった。
三年前、彼女のユキを失ってから俺の時間はあの事故現場で止まったままだ。
彼女のいない世界は、まるで分厚いすりガラス越しに見ているように現実感がなく、枕を通しているかのように籠もって聞こえる。
喜びも悲しみさえも、心の表面を滑っていくだけだった。
その滑り落ちていく感情を掬う力ももう俺は持ち合わせていない。
「次は、終点――」
気怠い車内アナウンスが鼓膜を撫でる。
ああ、またこのどうしようもない一日が終わるのか……。
重くなるまぶたに逆らえず、俺は深い眠りの底へと引きずり込まれていった。
どれくらい経っただろうか。不意にうるさいほどの静寂に意識が浮上した。まるで分厚い壁に囲まれた部屋にでもいるかのようにしんとしている。
先ほどまで耳にこびりついていたレールの音も、空調の作動音も、何もかもが消え深海に沈んだかのような嫌な圧迫感が全身を包んでいた。
俺はその光景に愕然とした。車内には俺一人しかいない。先ほどまでいた向かい側の乗客や、他の席に座った客はまるで蒸発したかのように姿を消していた。
驚いたことに窓の外は夕焼けの光で赤く染まっている。夜の闇が覆っていたというのに、夢でもみているのだろうか?
電車は駅に停止しておりホーム側のドアが開いている。目的の駅ではなかった。見たこともない駅のホームだ。
俺は窓越しにその異様な光景に眉をひそめる。
古びた木造の駅舎。屋根を支える鉄骨は赤茶けた錆に覆われ、まるで巨大な獣の肋骨のようだ。
駅の看板はボロボロで文字がかすれているが、かろうじて「かたとき」というひらがなだけが、夕闇に浮かび上がっていた。
ふと目の端に駅のホームの柱にかかった大きな丸時計が映り込む。視線を向けるとその秒針はまるで悪ふざけのように高速で回転していた。
一周するのに五秒もかからない。そのくせ、長針と短針はぴくりとも動かず、五時四十七分を指したまま。
背筋を冷たい汗が伝う。
なんだ、ここは? すべてがおかしい。外に出るべきか、それともここに留まるべきか。けれどこのまま発車する気配もなかった。
意を決してホームに足を踏み出すと、古い木の匂いと微かな潮の香りが鼻腔をくすぐった。空気そのものが重く、湿っている。
すると俺がホームに降りるのを待っていたかのように電車のドアが締まり出発してしまった。
呆気にとられ差し伸べた手は空を切り、知らない土地に取り残されてしまう。
諦めて周りを見回すとホームはがらんとしていた。
赤く染まった夕焼けの空がどこまでも広がっている。風雨に晒され表面がささくれ立った木製の白いベンチが一つ、ぽつんと置かれているだけ。
ふと視線を感じて振り向くと人影があった。
夕日を背にしていて顔はよく見えないが、小柄なシルエットが一つ。見覚えのある和服が見えた。裾が不気味なほど穏やかな風に揺れている。
心臓が嫌な音を立てて締め付けられた。まさか! いや、ありえない。そんなはずがない! 思考が現実を拒絶する。
するとゆっくりとその人影がこちらに手を振った。
「遅かったね。ずっと待ってたよ」
その声を聞いた瞬間、俺の世界から再び音が消えた。ユキだった。
三年前、夏祭りの帰り道、横断歩道で信号無視の車に彼女ははねられた。俺の腕の中でゆっくりと冷たくなっていくユキ。いまでもあのときの感覚を覚えている。
銀色のショートヘアーも、少し困ったように笑う癖も、何一つ変わっていない。
「……ユキ?」
掠れた声で名前を呼ぶのが精一杯だった。これは夢だ。疲労が見せている幻覚だ。そうでなければ、この狂った状況の説明がつかない。
「どうしたの、ユウト。そんな、幽霊でも見るような顔して」
彼女はくすくすと笑いながら俺の元へ歩み寄ってくる。恐る恐る、震える手で彼女の手に俺は触れた。温かかった。
幻でも、幽霊でもない。確かな体温と、柔らかな肌の感触がそこにあった。
「なんで……。だって、ユキは、あの時……死んだはずじゃ……」
「死んだ? うーん、そうかも。よく覚えてないや」
彼女は、まるで昨日の夕飯のメニューを忘れたかのように、あっけらかんと言う。
「なんて言えばいいのかな? 気がついたらここにいて。ユウトがいつか来てくれるって、そんな気がしてたんだ」
訳が分からなかった。けれど、今の俺にそんなことはどうでもよかった。目の前にユキがいる。失われたはずの時間が、取り戻せないと絶望した温もりが、今ここにある。
その事実だけで俺は考えることをやめていた。そして俺は、子供のように声を上げて泣きながら彼女の体を強く強く抱きしめる。
どのくらい時間が経っただろうか、俺はようやく落ち着きを取り戻すと、ユキに手を引かれ俺たちは駅の外を歩いていた。
そこは奇妙な町だった。永遠に夕焼けが終わらない空の下、懐かしいようでいて、どこか歪んだ建物が並んでいる。
駄菓子屋には俺が子供の頃に夢中で食べたお菓子が並んでいるが、よく見るとパッケージの文字が鏡に映したように左右反転している。
公園のブランコは誰も乗っていないのに、錆びて軋んだ音を立ててゆっくりと揺れていた。まるで見えない誰かが遊んでいるかのように。
「この駅はね、『時が重なる場所』なんだって」
ユキは誰から聞いたのかも分からない知識をさも当たり前のように話す。
その口調は、むかし二人で訪れた知らない街の観光案内を読み上げる時のような口調だった。
「色んな時代の、色んな人の想いが流れ着く場所。だから、たまにユウトみたいに間違って来ちゃう人がいるんだって」
「それじゃあ、ユキも……?」
「うん。私も気がついたらここにいた。こうやって出会えたのもユウトに会いたいなって、ずっと思ってたからかな?」
彼女の正体は、やはり分からなかった。俺の知っているユキなのか。それとも、この異界が俺の記憶を元に作り出した精巧な幻なのか。
だが、その疑念は、彼女の笑顔の前では取るに足らない些細なことに思えた。
俺たちは失われた三年間を埋めるように他愛もない話をした。
俺が今どんな仕事をしているのか。共通の友人たちはどうしているのか。ユキは、楽しそうに相槌を打ちながら聞いてくれていたが、時々寂しそうな表情も見せた。
「そっか、みんな元気に日々を過ごしているんだね、良かったよ」
彼女の言葉がナイフのように胸に突き刺さる。
俺だけが、三年前のあの交差点でずっと止まったままだった。だから素直に俺は首を縦に振れなかった。
しかし、この幸福な時間はこの世界の歪みによって少しずつ脅かされていた。
駅のホームに設置されたスピーカーから、時折激しいノイズと共に元の世界の音が聞こえてくるのだ。
けたたましい車のクラクション。遠くで鳴り響く救急車のサイレン。そして、微かに俺の名前を呼ぶ母親の悲痛な声。そのたびにユキは俺の耳をそっと手で塞いだ。
「聞いちゃだめ。こっちに、いられなくなっちゃうから」
そういう彼女の姿もテレビの映像が乱れるように一瞬だけノイズが走り、向こう側の風景が透けて見えることがあった。
そのたびに俺の心臓は凍りついたが、彼女自身は気づいていないのか何も言わなかった。
俺はこの甘い時間に浸りながらも心のどこかで理解していた。ここは俺のいるべき場所ではない。この幸福は借り物の時間に過ぎないのだと。
ふと、ユキが「少し眠るね」と言って駅の待合室でうたた寝を始めた。
俺は一人、駅舎の中を探索することにした。ここが何なのか手がかりを探すことにした。
駅員室は固く閉ざされていたが、その隣の忘れ物を預かる小さな窓口が開いていた。
中を覗くと棚に様々なものが並んでいる。片方だけの手袋、錆びて針の止まった腕時計、色褪せた麦わら帽子。
まるで持ち主たちの時間だけが先に進んでしまったかのようだ。
その棚の隅に、一冊の古い日誌が置かれていた。表紙は黒い革で装丁され角は擦り切れている。
埃を払いページをめくった。インクが滲み、必死に書きなぐったような文字が並んでいた。それは、かつてこの駅に迷い込んだ誰かの記録だった。
『――この駅は、時の淀み。現世への未練が、人をここに留める』
『――帰りたければ、始発を待て。だが、電車は空では発たない』
『――トランクに、この世界で得た最も大切な思い出を詰めろ。それは、この駅を維持するための贄となる。思い出を捧げた者だけが、現世への切符を手にできる』
日誌の最後のページには力なく震える文字でこう書かれていた。
『僕は、帰れない。ここで見つけた思い出が、あまりにも温かすぎて……僕には……』
日誌を閉じた俺の目に、窓口の隅に置かれた古びた革のトランクが映りこんだ。これが贄を捧げるための……?
俺にとって、この世界で得た最も大切な思い出。それは言うまでもなくユキとの再会だ。
元の世界に帰るには、この奇跡のような時間を自らの手で消し去って、トランクに詰め込まなければならないのか。
もしこのまま帰れば、そこはユキのいない色のない世界。
もしここに留まれば、偽物かもしれない彼女と、歪んだ楽園で永遠に過ごせる。
心臓を冷たい手で鷲掴みにされたような息苦しさに、俺は頭を抱えその場にうずくまった。
俺が深いため息を吐きながら待合室に戻ると、いつの間にか目を覚ましていたユキが静かに俺を見つめてくる。
その表情は俺が日誌を読んだことを悟っているようだった。
俺は何も言えなかった。帰りたい。でも、帰りたくない。矛盾した感情が喉の奥で渦巻いて、言葉にならない。
ユキが、そっと俺の隣に座った。
「……何も悩むことなんてないでしょ。ほら、ここにいちゃダメだよ」
「でも……」
「あなたの時間は、ちゃんと進めないと」
俺は、たまらなくなって叫んでいた。
「じゃあ、ユキはどうなんだよ! 君だって、ここにいるじゃないか!」
「私は、いいの」
彼女は悲しそうに微笑んだ。その笑顔は夕焼けの光を浴びて、儚く透き通っているように見えた。
「私はもう、どこにも行けないから。私の時間はあの時からもう止まっている。でも、ユウトは違うでしょ。あなたには、まだ未来がある」
「君のいない未来なんて意味ないだろ!」
「意味なら、あるよ」
彼女は俺の目をまっすぐに見つめた。その瞳の奥に俺の知らない深い悲しみが揺らめいていた。
「私が……あなたの『意味』になるから」
俺は息を呑んだ。彼女は俺の葛藤も、弱さも、すべて見抜いていた。
「今のあなたは思い出の中に生きているだけ。そう、時間が止まってるの。……でもね、もし『本物』の私がいるとしたら、きっと同じことを言うと思う。『私のことを思い出にして、ちゃんと生きて』って」
彼女の声が、わずかに震える。
「だから、これは『本物』の私からの伝言。そう思って」
ユキは立ち上がると、あの古いトランクを俺の前に置いた。
「あなたにとってこの世界の一番の思い出は、私とまた会えたこと……でしょ?」
頷くしかできない俺に彼女は続けた。
「その思い出をトランクに詰めて。大丈夫! 私がここで、ずっと預かっててあげるから。ユウトがちゃんとおじいちゃんになるまで、ずっとずっと大切にここで守っててあげる」
その笑顔は紛れもなく、三年前俺が最後に見たユキの笑顔のままだった。
俺はユキに促されるままトランクを受け取った。
俺はそのトランクを両手で受け取ると目を閉じた。
この駅で過ごした時間の全てを、彼女の笑顔を、温もりを、心の奥から引き剥がすようにトランクへと注ぎ込む。
するとトランクが少し淡く光を放ったかと思うと、カチリと小さな音を立てトランクの錠が閉まった。
その瞬間、何かが自分の中から抜け落ちていくのを感じる。悲しいはずなのに胸の奥は不思議と温かかった。
ユキは俺からトランクを受け取ると両腕でぎゅっと抱きしめる。彼女は満面の笑みを浮かべていた。
空が茜色から濃い紫色に移り変わっていく。
止まっていた時間が動き出そうとしていた。永遠に続くかと思われた夕焼けが終わろうとしている。
電車が駅に着くことを知らせるベルの音がホームに響いた。
「さあ、行って」
ユキに背中を押され、ホームに一両の古い電車が滑り込んできた。俺は大きく深呼吸をすると決意を決めて電車に乗り込む。
ドアが閉まる直前振り返った。ホームに立つユキの体が足元からゆっくりと光の粒になって風に溶けていく。
「ありがとう、会いに来てくれて」
最後にそう呟いた彼女の唇は、もう音を発していなかった。
そして急に目眩がしたと思うと、次に目を開けた時には俺はいつもの通勤電車の中にいた。
電車の規則正しい揺れ。吊り革が擦れる音。蛍光灯の白い光が向かいの席で口を開けたまま眠る男性の顔を照らしている。
時間は眠りに落ちた直後からあまり経っていなかった。長い夢でも見ていたのだろうか?
あまりにリアルで、切なくて、温かい夢を……。
窓の外には見慣れた街の明かりが流れていく。
ユキと再会した記憶は夢の輪郭のように曖昧になっていた。なぜか彼女の顔も、声も、はっきりとは思い出せない。
けれど、ずっと胸の奥で鉛のように重く伸し掛かっていた喪失感はキレイに消えていた。代わりに陽だまりのような確かな温もりだけがそこにある。
ユキ、もう大丈夫だよ。ちゃんと前を向いて生きていける。俺はそう心のなかで呟いた。
ふとなにか違和感がありスーツの内ポケットに手を入れると、指先に何か硬い紙のような感触があった。
取り出してみると、それは一枚の古びた切符だった。
日付も、値段も書かれていない。ただ、掠れた活字でこう印刷されていた。
『かたとき駅』
俺の頬を一筋の涙が伝う。あれは夢なんかじゃなかったんだ。
俺は切符を強く握りしめた。胸に残る温もりは、ユキが今もあの駅で俺の思い出を守ってくれている証なのだろう。
いつか人生という長い旅路の果てに、また君に会えるその時まで……。
電車は夜の闇を抜け新しい朝へと向かって走り続けていた。