若獅子への密命
黄龍帝国の最前線。黒鷲関を失った後の、間に合わせの野営地。
秋の冷たい雨が降りしきり、陣地は泥沼と化していた。
趙子龍、二十歳。
雨に濡れるのも構わず、泥まみれになりながら壊れた陣地の柵を自ら修復している。その顔は若いが度重なる戦で年齢にそぐわない険しさが刻まれていた。
首都からの補給は三週間前に途絶えている。兵士たちは薄い粥でかろうじて命を繋いでいた。
彼の上官である将軍は首都の貴族の縁者で実戦経験のない臆病者。彼は家柄の低い子龍が兵士たちに慕われていることを妬み、常に彼に無理難題を押し付けてくる。
そしてまさに今朝、その無能な上官から「明日、夜明けと共に敵本陣へ玉砕覚悟の陽動攻撃を仕掛けよ」という事実上の死刑宣告を受けていた。
子龍が部下たちと共に死を覚悟した最後の食事をすすっていると、陣地に不釣り合いな豪奢な鎧をまとった一騎の騎馬武者が現れた。皇帝の勅命を伝える「勅使」だった。
勅使は泥まみれの陣地と骸骨のように痩せた兵士たちを見てあからさまに眉をひそめ、鼻をつまむ。
彼は子龍を見下した態度で一つの巻物を投げ渡した。
「趙子龍だな。貴様に陛下からの直々の密命だ。ありがたく拝受しろ」
子龍は訝しみながらもその巻物を開く。
そこには明日予定されていた陽動攻撃の中止と、もう一つの信じがたい命令が記されていた。
「貴官の部隊のみを率い敵軍を大きく迂回し、その補給部隊を奇襲、殲滅せよ」
(…罠だ)
彼は即座にそう判断した。これは自分たちを敵地のど真ん中で孤立させ確実に抹殺するための、上官の新たな嫌がらせに違いない。
しかし彼が命令書に添付されていたもう一枚の羊皮紙――玲蘭が描いた地図――に目を落とした瞬間、彼の思考は完全に停止した。
そこに描かれていたのはただの道筋ではなかった。
川の最も浅い場所、敵の斥候が交代する時間、夜間に霧が発生しやすい沼地、奇襲に最適な隘路の地形。
まるで神が天から戦場を見下ろし、勝利への唯一の道筋を描き出したかのような完璧な「設計図」。
絶望のどん底にいた子龍の目に、生まれて初めて見る本物の「知性」と「戦略」の輝きが映る。
彼はその地図から作者の勝利への揺るぎない確信と、兵士の命を無駄にしないという強い意志を感じ取り、全身に鳥肌が立つのを感じた。
(この地図を描いた者は本物の軍略家だ…!)
(この方は俺たちを捨て駒などとは考えていない。信じられる…! この地図ならば、この方ならば俺たちを勝利に導いてくれる!)
子龍は上官の命令に背き、この差出人不明の密命に全てを懸けることを一瞬で決断した。
彼は絶望に沈む部下たちを集め、その地図を高く掲げて叫ぶ。
「野郎ども、聞け! 明日の玉砕命令は取り消しになった!」
兵士たちが驚きと疑いの声を上げる。
「俺たちは死にに行くんじゃねえ! 勝ちに行くんだ! この地図を見ろ! 天が俺たちに勝利への道を示してくださった!」
「俺は、この地図を、そしてこの策を授けてくださった、まだ見ぬお方を信じる! 俺についてくる奴はいるか!」
彼の魂からの咆哮。
それは死を待つだけだった兵士たちの心の奥底に眠っていた闘志の火を再び燃え上がらせた。
「「「おおおおおおっ!!」」」
泥と絶望に満ちた陣地に久しく響くことのなかった力強い雄叫びがこだまする。
一人の少女の「声なき献策」と一人の若き獅子の「魂の叫び」が運命的に交わった瞬間だった。




