「拾い物」と影の男
権力の中枢である紫宸殿へと続く長い回廊。
玲蘭はその柱の影に息を潜めて立っていた。
時折通りかかる宦官や女官たちが物珍しそうに彼女を一瞥していく。
心臓が警鐘のように胸の中で鳴り響いていた。懐にしまった献策書の乾いた感触がやけにリアルに感じられる。
(もし彼が現れなかったら…?)
最悪のシナリオが脳裏をよぎる。
その時、回廊の向こうから凛とした足取りで歩いてくる一人の男の姿が見えた。
他の宦官たちとは明らかに違う優雅で隙のない佇まい。
大宦官、王皓月。
玲蘭は深く息を吸い込み覚悟を決めた。
彼女は柱の影からさも偶然通りかかったかのように、王皓月の少し前を歩き始める。
そして彼の足音がすぐ背後に迫った完璧なタイミングで、足を僅かにもつれさせるふりをした。
その瞬間、彼女は懐から献策書を抜き取り、まるで自分の不注意で落としてしまったかのように床に転がす。
彼女自身はそれに全く気づかないふりをし、慌てて体勢を立て直すとそのまま立ち去ろうとした。
手渡しでは受け取った側も「共犯」と見なされるリスクがある。しかし「偶然落ちていたものを拾った」のであれば王皓月には言い訳の余地が生まれる。
玲蘭の相手の立場まで考慮した最大限の配慮と計算だった。
玲蘭の計画では王皓月は黙ってそれを拾い立ち去るはずだった。
しかし彼の静かな声が彼女の背中に突き刺さる。
「――そこの第三皇女殿下。お忘れ物でございますよ」
心臓が凍りつくのを感じながら玲蘭はゆっくりと振り返る。
そこには落ちていた巻物を指先で優雅につまみ上げた王皓月の姿があった。
彼の目は全てを見透かすかのように穏やかに、しかし鋭く玲蘭を見つめている。
「あら…? わたくしのものではございませんわ。どなたかお困りの方がいらっしゃるのでしょうね」
玲蘭はあくまで無垢な皇女を演じる。
「ほう…」
王皓月は巻物を拾い上げ封に書かれた文字を一瞥すると、意味ありげに微笑んだ。
「これは確かに。これを失くされてはこの『帝国』そのものがお困りになるやもしれませんな」
核心を突かれ冷や汗をかく。
しかし玲蘭は表情を変えない。
「…さあ。わたくしには難しいことは分かりません。王様、よしなに、お計らいくださいませ」
王皓月は玲蘭の完璧な演技に満足したように頷いた。
彼は巻物を自分の袖に入れると彼女に深々と一礼する。
「心得ましてございます姫様。この『拾い物』…この王皓月、責任を持って本来あるべき場所へとお届けいたしましょう」
彼は最後まで「拾い物」という体裁を崩さなかった。
それは彼なりの「貴女の意図は汲んだ。そして貴女をこの件には巻き込まない」という無言のメッセージだった。
王皓月が優雅に立ち去った後、玲蘭はその場に立ち尽くす。
(賭けは…成功した…?)
(でもなぜ彼は私の考えが分かったの? いつから私に気づいていた…?)
静思堂に戻った彼女は窓の外を眺めながら、自分の放った一手がこれからどのような波紋を広げるのか期待と不安の入り混じった気持ちで考えていた。




