声なき献策書
深夜の静思堂。
蝋燭の光だけが、玲蘭の手元にある一枚の羊皮紙を照らし出している。
それは昨夜、彼女が覚悟を決めて書き上げた「献策書」だった。
地図部分はまるで測量したかのように正確だ。前世の「等高線」や「縮尺」の概念を応用して描かれているため、この世界の誰にも真似できないレベルの出来栄えになっている。
文章はわざと少なく、箇条書きに近い形で要点のみが記されていた。「決戦ヲ避ケヨ」「敵ノ弱点ハ補給ニアリ」「此処ヲ叩ケ」。多忙な為政者や軍人が一目で内容を理解できるようにという、前世のビジネス文書作成の知識に基づいた配慮だ。
筆跡も玲蘭本来の流れるような優雅なものではない。まるで武人が書いたかのような力強く角張った筆跡。これも自分の正体を隠すための計算された偽装だった。
玲蘭はその完璧な出来栄えの献策書を眺めながら、自分の指が微かに震えていることに気づく。
(…美しい。あまりにも美しく合理的だわ。人を効率的に殺すための設計図として)
彼女は自分の知識が人の命を奪う「兵器」そのものであるという事実に、改めて恐怖と罪悪感を覚えた。
一度、その献策書を丸めて火にくべてしまおうかと思う。
(これを世に出さなければ、私は誰の死にも責任を負わなくて済む。またあの静かな日々に戻れるかもしれない…)
しかし脳裏に薬草院で見た光景が蘇る。
苦痛に呻く兵士たち。絶望に泣き崩れる家族。そしてこれから蹂躙されるであろう、名も知らぬ村々で暮らす人々の顔。
(違う…! 私がこれを燃やすことは「何もしない」ことじゃない)
(助けられる命があることを知りながら見殺しにすること。それは私が自分の手で彼らを殺すことと同じじゃないの!)
(もう、戻れない。真実を知ってしまった以上、私はもうただの傍観者ではいられないんだわ)
「何もしない」という選択肢が実は最も残酷な罪であると気づく。
覚悟は決まった。
しかし問題は「どうやって」この献策書を、意思決定権を持つ人間の元へ届けるかだ。
皇女といえど政治的な献策を自由に行うことはできない。正式なルートを通せばまず皇后派の宦官に握り潰されるのがオチ。差出人不明の投書など読まれずに捨てられるのが関の山だ。
絶望的な状況の中、玲蘭の脳裏にただ一人の人物の顔が浮かぶ。
それはあの国の腐敗を憂いていた影の実力者――大宦官・王皓月。
(あの男…彼は皇后派でも宰相派でもない。彼が忠誠を誓っているのは派閥ではなくこの『帝国』そのもの)
(彼はきっと理解してくれるはず。この献策書に込められた憂国の情を)
(でももし彼が私を裏切れば…? 私がこれを書いたと皇后に密告すれば、私は謀反人として…)
成功すれば帝国は救われるかもしれない。失敗すれば自分は死ぬ。
玲蘭はそのハイリスク・ハイリターンな賭けに自分の全てを懸けることを決意した。
彼女は完成した献策書を油紙で丁寧に包むと、懐の奥深くへとしまい込む。
侍女の小蘭を呼び「少し庭の空気を吸ってきます」と普段と変わらぬ穏やかな表情で告げた。小蘭は何も疑わずに「いってらっしゃいませ姫様」と彼女を送り出す。
この何気ない日常の描写が玲蘭の覚悟の非日常性を際立たせた。
玲蘭は一人静思堂を出る。
彼女が向かうのは庭園ではない。王皓月が皇帝への報告を終え、必ず通るであろう権力の中枢へと続く回廊だった。




