静思堂の約束(エピローグ)
皇帝の崩御から一年後。
季節は再び穏やかな春を迎えていた。
玲蘭が摂政として支える新体制の下、黄龍帝国は驚異的な速さで復興を遂げ、都には活気が戻っている。
ある日の午後、玲蘭は全ての公務を休み、たった一人で懐かしい場所を訪れていた。
後宮の最奥、静思堂。
扉を開けると埃と古い紙の匂いが彼女を優しく包み込む。
そこは彼女が「李玲蘭」というただの少女に戻れる唯一の場所だった。
彼女は書架の間を歩きながら、この場所で過ごした孤独でしかし平穏だった日々を静かに思い出していた。
書庫の最も奥。かつて彼女が床に座り込んで竹簡を読んでいたお気に入りの場所。
そこに一人の男が静かに立っていた。
趙子龍だった。
彼は大元帥としての物々しい軍服ではなく、上質なしかし飾り気のない濃紺の平服を身につけている。
その姿は帝国最強の武人ではなく、ただ実直で少し不器用な一人の青年のようだった。
「…子龍。どうしてここに?」
「貴女がここにいらっしゃるような気がいたしました。…時々お一人でここに来ておられると王皓月様から伺っておりましたので」
二人の間には穏やかで親密な空気が流れている。
子龍は少し照れたように懐から小さな布の包みを取り出した。
「玲蘭。…約束の品です」
彼がその包みを開くと中から現れたのは数粒の小さな白い花の種だった。
それは彼が最後の手紙に描いてみせた彼の故郷に咲くあの花。
「北の地がようやく落ち着きましたので先日一度だけ故郷の村に帰る許しをいただきました。その時に摘んできたのです」
彼はその種を玲蘭の手にそっと乗せると、意を決して彼女の目をまっすぐに見つめる。
「玲蘭。俺は貴女と共にこの花を育てたい。貴女が創るこの平和な国でこの花が咲くのを貴女の隣でずっと見ていたい」
「…俺と夫婦になってはいただけないだろうか」
それは彼らしいどこまでも不器用で、しかし心の底からの誠実なプロポーズだった。
玲蘭の瞳から一筋幸せの涙がこぼれ落ちる。
彼女は懐から大切にしまっていた一枚の「押し花」を取り出した。
一年前彼が彼女に送ってくれたあの竜胆の花だった。
「――答えはとうの昔に決まっておりましたよ。私の不器用な将軍様」
彼女は最高の笑顔で力強く頷いた。
二人はどちらからともなくそっと手を取り合う。
窓から差し込む春の陽光がそんな二人を優しく照らし出していた。
(前世の知識は私にこの国を救うための『地図』をくれた)
(でもこれから進むべき幸せへの『道』は…この人が教えてくれる)
玲蘭はもう前世の記憶に頼る必要はない。
彼女はこの世界でかけがえのない仲間と、そして愛する人を見つけたのだから。
――数年後。
皇宮の庭の一角には見事な白い花の畑が広がっている。
その花畑の中を楽しそうに駆け回る小さな男の子と女の子。
その姿を穏やかな笑みで見守る玲蘭と、その隣に立つ趙子龍の姿があった。
後宮の片隅で誰からも忘れられていた姫は歴史を動かす軍師となり、そして今、愛する家族と共に誰よりも幸せな未来をその手に掴んだのだった。
【完】




