龍の眠り
蒼狼国との和平条約が結ばれ帝都にようやく本当の平穏が訪れた、ある日の午後。
玲蘭は趙子龍と共に父である皇帝の寝所を訪れていた。
皇帝の病状はもはや誰の目にも明らかだった。
しかし彼の顔には国が滅びの淵から救われたことへの安堵からか、これまでにない穏やかな表情が浮かんでいた。
彼は弱々しいしかしはっきりとした声で玲蘭に語りかける。
「…玲蘭よ。見事であった。そなたは朕が果たせなかったこの国を救うという大業を成し遂げた」
「朕は間違っておった。…世継ぎとは血の繋がりや性別で決まるものではない。国を民を誰よりも深く愛する心を持つ者こそがふさわしいのだ」
皇帝は枕元に置かれていた正式な遺言状を指し示す。
そこには追放した李誠を廃嫡し次期皇帝の座を玲蘭に譲るという内容が記されていた。
「この国の未来をお前に託す玲蘭。…お前こそが次の龍の帝国の皇帝となるのだ」
その場にいた王皓月をはじめとする側近たちは誰も驚かない。誰もがそれが当然の結果だと考えていた。
子龍もまた誇らしげにそして愛おしげに自分の主君を見つめている。
しかし玲蘭はその遺言状を静かに皇帝の手元へと押し戻した。
そして穏やかに、しかし決して揺るがない声で首を横に振る。
「――父上。そのお言葉、娘としてこれ以上ない栄誉にございます。ですがわたくしは玉座には座りません」
驚く皇帝に玲蘭は自分が描く新しい国の形を語り始めた。
「父上。この国が腐敗した本当の原因は何だったと思われますか? それはたった一人の人間の血筋や能力に国の全てが左右される『皇帝』というこのシステムそのものにございます」
「わたくしはもう二度と兄上のような悲劇をそして父上のような苦悩を生み出したくはないのです」
「わたくしは玉座には就きません。わたくしは玉座に座るべき正しき者を『支える』者でありたいのです」
彼女が提案するのは絶対君主制からの脱却。
皇帝は民の敬愛を集める「象徴」として存在する。
実際の政治は科挙によって選ばれた有能な官僚たちによる「合議制」によって執り行われる。
そして自分は政治が正しく行われるかを監督し幼い新皇帝を導く「摂政」の地位に就く、と。
玲蘭のそのあまりにも壮大でそして私欲のない理想を聞き、皇帝はもはや言葉もなかった。
彼は自分の娘が自分の理解を遥かに超えた真の「為政者」へと成長を遂げたことを悟る。
(…そうか。そなたは龍の玉座ではなく龍の飛ぶその『天』そのものを創ろうとしているのか…)
皇帝は満足げに深く頷いた。
そして玲蘭とその隣に立つ子龍の顔を交互に見つめる。
「…良いだろう。そなたの思うがままにせよ」
「子龍…娘を頼んだぞ…」
それが彼の最後の言葉だった。
彼はまるで全ての責任から解放されたかのように安らかな寝顔で静かに長い眠りについた。
一つの時代が、終わった。
玲蘭は涙を流さない。ただ冷たくなった父の手を静かに握りしめた。
(お眠りください父上。貴方が守りたかったこの国はこれから新しく生まれ変わります)
(貴方が愛したこの国を、私は誰よりも強く誰よりも優しい国へと創り変えてみせますから)




