地図の上の戦争
薬草院から戻った玲蘭は人が変わったように行動を開始した。
彼女は静思堂の床に、これまで密かに書き写してきた帝国北部の巨大な地図を広げる。
それはただの地理的な地図ではなかった。
山脈の高さ、川の深さ、森の植生といった基本的な地理情報。
街道だけでなく猟師しか知らないような獣道や古い廃道。
各地の村々の人口、特産物、そして領主の性格まで。
玲蘭が静思堂にある膨大な地理書や地方誌、果ては誰にも読まれなくなった古い徴税記録まで読み込み、それらの情報を統合して作り上げた、帝国最高の情報密度を誇る「軍事地図」だった。
(お爺様、感謝いたします。貴方が残してくださったこのガラクタの山が…今、帝国の命綱になるかもしれません)
玲蘭は赤い石(蒼狼国軍)と白い石(帝国軍)を用意する。
そして彼女は地図の上で黒鷲関での敗戦をもう一度「追体験」した。
腐敗によって兵糧が届かなかった帝国軍(白い石)が、いかにして城から打って出ざるを得なかったか。
平野で機動力に勝る蒼狼国の騎馬軍団(赤い石)に、いかにして包囲され殲滅されていったか。
彼女は石を動かしながら、まるで自分が李巌将軍になったかのようにその絶望と無念を追体験し、唇を噛みしめた。
次に彼女は盤面を元に戻す。
(もし、私が李巌将軍だったら…)
彼女は今度は「勝利」への道筋を盤上で再設計していく。
(籠城はできない。ならば打って出るしかない。だが正面からぶつかるのは愚の骨頂)
(敵の目的は我が主力との決戦。ならばこちらは徹底的にそれを避け敵を苛立たせる)
(そして敵の弱点…あの無防備に伸びきった『兵站線』を、別の部隊で叩く!)
彼女の指が地図の上で誰も予想しなかったであろう一点を力強く指し示した。
勝利への完璧な道筋が見えた瞬間、玲蘭を襲ったのは高揚感ではなく再び深い無力感だった。
(見えた…勝つための道がこんなにもはっきりと見えているのに…!)
(でもこれを誰に伝えればいい? 後宮の片隅にいる十六歳の皇女の言葉を、誰が信じるというの?)
(間に合わない。私がこうしている間にも蒼狼国軍は南下し村が焼かれ人が死んでいく…!)
彼女は自分の非力さに涙しそうになる。
しかし脳裏に薬草院で見た負傷兵たちの苦悶の表情が浮かんだ。
(泣いている暇はない。嘆いている時間もない)
(やれるかやれないかじゃない。やるしかないんだ!)
(たとえ誰にも信じられなくても。たとえこれが徒労に終わったとしても。この知識を持つ者として、行動しないという選択肢は私にはない!)
覚悟を決めた玲蘭の瞳から迷いが消える。
彼女は新しい羊皮紙を取り出すと驚くべき速さで筆を走らせ始めた。
彼女が書いているのはただの文章ではない。
まず彼女が作り上げた超精密な地図の一部を完璧に書き写す。
次に敵の補給部隊が必ず通るであろう隘路を赤い墨で力強く丸で囲む。
そして文章は最小限に。「決戦ヲ避ケヨ。敵ノ弱点ハ補給ニアリ。此処ヲ叩ケ」とだけ、誰が書いたか分からぬよう角張った男のような筆跡で記す。
彼女は書き上げたそれを静かに巻物へと仕立て上げた。
差出人の名はない。これは後宮の皇女からではない。帝国の未来を憂う名もなき「誰か」からの、声なき献策書だった。
(問題は、どうやってこれを戦場を知る者の元へ届けるか、ね…)
玲蘭の脳裏にただ一人の人物の顔が浮かぶ。
それは国の腐敗を憂いていたあの影の男――大宦官・王皓月。
彼女はその巻物を懐に深くしまい込むと静かに立ち上がった。
彼女の帝国を揺るがす最初の一手はもう放たれようとしていた。




