龍が哭(な)いた日
龍涙谷の中心。
趙子龍とテムジンの槍が火花を散らしながら何度も激しく交錯する。
馬上で繰り広げられる神技の如き攻防。
純粋な一対一の武技では百戦錬磨のテムジンがわずかに子龍を上回る。彼の槍は荒々しく予測不可能でまさに狼の牙のようだ。
しかし子龍は決して力押しでは戦わない。彼は玲蘭から授けられた最後の助言――「彼は誇り高い。故に必ず自分から仕掛けてくる。貴方は守りに徹し彼の体力が消耗するのを待ちなさい」「彼の癖は右からの大振り。その一瞬だけを狙うのです」――を鉄の意志で忠実に実行していた。
両者の戦いは数十合を打ち合っても決着がつかない。
帝国軍本陣。玲蘭はその膠着状態を丘の上から冷静に見極めていた。
そして彼女はこの戦いを終わらせるための最も非情で最も確実な「最後の切り札」を切る。
彼女は隣に控える伝令兵にただ一言静かに告げた。
「――堰を、切れ」
その合図を受け龍涙谷のはるか上流で帝国軍の工兵部隊が密かに築いていた巨大な土嚢の堰が一斉に破壊される。
轟音と共に山津波のような濁流が谷の側面から蒼狼国軍の兵士たちを飲み込んでいった。
それは玲蘭が地図から谷の地形と川の流れを完璧に計算し、「敵の退路」と「敵軍が最も密集している側面」だけをピンポイントで洗い流すように設計した「地形兵器」だった。
戦場は一瞬で阿鼻叫喚の地獄へと変わる。
この天変地異のような光景にさすがのテムジンも一瞬だけ意識を逸らしてしまう。
彼は自分の部下たちがなすすべもなく濁流に飲まれていく様を愕然と見つめてしまった。
そのコンマ数秒の隙を趙子龍は見逃さなかった。
彼の槍が閃光のように走りテムジンの右肩を鎧ごと深く貫く。
草原の覇王はついに愛馬から崩れ落ちた。
彼の落馬を見た蒼狼国の兵士たちの心もまた完全に折れた。
彼らは武器を捨て次々とその場に膝をつき降伏の意を示す。
帝国軍の兵士たちが地鳴りのような勝利の雄叫びを上げた。「万歳!」という歓声が龍涙谷にこだました。
しかしその熱狂の中心にいるはずの帝国軍本陣。
玲蘭は一人天幕の中で静かに膝をついていた。
彼女の頬を、一筋の涙が伝う。
それは勝利の嬉し涙ではない。
それは敵将テムジンへの敬意の涙でもない。
それは自らの策によって人の命をまるで駒のように弄び、さらには川の流れという自然の摂理さえも無慈悲な兵器として利用してしまった、自らの「業」の深さに対する静かな、静かな涙だった。
(私は勝った。…そしてまた人ではない何かに一歩近づいてしまった…)
龍が哭いた日。
帝国の歴史はこの日大きな勝利を得て新たな一ページをめくった。
しかしその歴史を動かした少女は、その勝利の代償として二度とただの人間には戻れないほどの重い宿命を背負うことになったのだ。




