盤上の駆け引き
龍涙谷の平原。
趙子龍率いる帝国軍中央部隊とテムジン麾下の蒼狼国軍との間で激しい白兵戦が繰り広げられている。
砂塵が舞い剣戟の音と怒号が入り乱れるまさに地獄絵図。
開戦直後の「震天雷」による混乱からテムジンは驚異的な速度で軍を立て直していた。
「天の怒りではない! 敵の小賢しい手品だ! 狼の子らよ、臆するな!」
彼のカリスマが兵士たちの士気を回復させる。
帝国軍の士気は高いが蒼狼国の兵士一人一人の戦闘能力もまた凄まじい。戦況は一進一退の激しい消耗戦の様相を呈し始めた。
激しい戦闘の最中、テムジンの頭脳は冷静に盤面を分析していた。
(…おかしい。敵の中央部隊は精鋭だがそれだけだ。両翼の部隊の動きがあまりに鈍すぎる)
(あの皇女軍師がこれだけの消耗戦をただ無策で続けるはずがない)
(…そうか。これはあの銀狼平原の戦いの再現か!)
彼は玲蘭の狙いが中央部隊を「おとり」にして敵主力を引きつけ、その隙に両翼の部隊で「包囲殲滅」することだと完全に見抜いた。
しかしテムジンはただ防御に回るだけではなかった。
彼はこの玲蘭の「策」を逆利用することを思いつく。
(面白い。俺がその『包囲』の罠にあえて乗ってやるとは思うまい)
(俺は全主力を敵の布陣で最も手薄に見える『左翼』に一点集中させる!)
(敵の包囲網が完成するその前に! 脆弱な左翼を一点突破し、そのまま敵本陣の背後を突き、あの小生意気な皇女の首をこの手で刎ねてくれる!)
テムジンは即座に全軍に号令を下した。
蒼狼国軍はその主力のほとんどがまるで一つの巨大な槍のように、帝国軍の左翼へと殺到していく。
帝国軍本陣。
敵主力が自分たちの左翼に殺到したという報せに老将軍たちは色めき立つ。
「姫様! 策が見破られましたぞ!」「このままでは左翼が突破されます!」
天幕の中はパニック寸前の空気に包まれた。
しかしその混乱の中心で玲蘭だけが微動だにせず立体地図の盤面を見つめていた。
そして敵主力が完全に左翼へと食いついたのを確認すると、彼女は誰にも聞こえないほどの小さな声でこう呟いた。
「――かかりましたね、草原の覇王」
玲蘭の本当の狙い。それは「包囲殲滅」ではなかった。
銀狼平原の戦いはこの龍涙谷の決戦のための壮大な「布石」。テムジンに「この軍師は包囲戦術を好む」と強烈に刷り込むための壮大な「予行演習」だったのだ。
彼女はテムジンがその記憶から今回の作戦も「包囲殲滅」だと読み、そしてその裏をかいて「一点突破」を狙ってくることまで完全に予測していた。
(貴方が二手先を読む天才ならば…)
(私は貴方がその二手先を読むことまでを読み切って、三手先を打つだけのこと)
敵主力が完全に左翼に釣り出され、テムジンのいる「中央の本陣」が今、一瞬だけがら空きになった。
それこそが玲蘭がこの戦いの開始からずっと待ち続けていた唯一無二の「勝機」だった。
彼女は懐から趙子龍とだけ繋がるあの特殊な伝声管を取り出すと、静かに、しかし力強く告げる。
「――聞こえますか、子龍。…今です」




