決戦前夜の二人
出陣前夜。
龍涙谷へと向かう帝国軍の本陣。
兵士たちの間には明日からの決戦を前にした独特の緊張感と、しかしこれまでにない高揚感が満ちている。
彼らはもはや敗北を恐れていない。自分たちには皇女軍師がついているという絶対的な信頼があったからだ。
その夜、玲蘭の元に斥候から最後の報告が届いた。
「蒼狼国軍、龍涙谷に全軍集結完了。敵将テムジン、我が軍の改革の噂を聞き警戒を強めつつも『小娘の机上の空論、我が鉄騎で打ち砕いてくれる』と豪語している模様」
全ては玲蘭の予測通りに進んでいた。盤面は完璧に整った。
本営の天幕の中。
玲蘭は一人巨大な立体地図を見下ろしていた。
彼女の頭脳は明日からの戦いの何百、何千というパターンを高速でシミュレートし続けている。
そこに趙子龍が静かに入ってきた。
彼は玲蘭に温かい薬湯を差し出す。
「玲蘭様。少しは、お休みください。貴女様のその双肩には今この国の全てが懸かっているのですから」
子龍のその優しい言葉に、玲蘭が張り詰めていた糸がぷつりと切れた。
彼女の瞳から一筋涙がこぼれ落ちる。
「…怖いのです、子龍」
「怖いのですか? 貴女様が?」
「ええ…。私の頭の中では完璧な勝利の絵図が見えている。でもそれは何千もの兵士たちの死の上に成り立つ勝利。私の計画が一つでも間違えれば貴方や皆を無駄死にさせてしまう…。その重圧に私は押し潰されそうなのです…」
彼女は初めて完璧な軍師という仮面の下にある、一人の、か弱い十六歳の少女としての「弱さ」と「恐怖」を子龍にだけ打ち明けた。
子龍は驚き、そして彼女への愛おしさで胸が締め付けられるのを感じる。
彼は無言で玲蘭の前に進み出ると、その場に騎士のように深く片膝をついた。
そして彼は玲蘭の冷たくなった手を自らの傷だらけで温かい両手でそっと包み込む。
「玲蘭様。貴女様は一人ではございません」
「貴女様がその知略で何万もの命を背負うというのなら、俺は、この身一つで貴女様ただ一人をお守りいたします」
「貴女様はただ前を見て我らが進むべき道を示してくださればよい。その道に転がるどんな石もどんな棘もこの俺が貴女様の『剣』となって全て斬り拓いてみせます」
「ですからもうお泣きなさいますな。貴女の涙は俺がこの戦いが終わった後に全て拭ってさしあげます故」
それは臣下から主君への忠誠の誓いであると同時に、一人の男から愛する女への不器用でしかしこれ以上なく誠実な「愛の告白」だった。
子龍の力強い言葉と手の温かさに、玲蘭の心の中から不安と恐怖が氷が溶けるように消えていく。
彼女は彼の手を強く握り返した。
玲蘭は涙の跡が残る顔でしかし吹っ切れたような美しい笑顔を見せる。
「…ありがとう、子龍。もう大丈夫です」
彼女は初めて彼のことを「将軍」ではなく「子龍」と名前で呼んだ。
二人の心はこの瞬間、主君と臣下、軍師と剣という関係を超えて完全に一つになった。
玲蘭は立ち上がると天幕の外に出る。東の空が白み始めていた。
彼女は隣に立つかけがえのないパートナーの顔を見上げ悪戯っぽく微笑む。
「さて子龍。わたくしの初めての陣頭指揮(初陣)です。無様な戦いはできませんね」
子龍もまた絶対的な信頼を込めた笑顔で応えた。
「ご安心を。貴女の隣にはこの帝国で一番強い剣がおりますので」
帝国のそして彼ら自身の運命を決める夜明けの決戦はもう目前に迫っていた。




