託された印綬(いんじゅ)
伝令兵の報告がもたらした衝撃的な「真実」の後、皇帝の寝所は死んだような沈黙に支配されていた。
やがて皇帝は弱々しく、しかし有無を言わせぬ帝王としての威厳を取り戻した声で李誠と皇后に命じる。
「――下がれ。二人とも朕の目の前から消えよ」
その声には息子への失望とこれまでの自分への後悔、そして最後の決意が込められていた。
李誠たちは何も言い返せず失意のまま部屋を退出する。
部屋に再び玲蘭と皇帝の二人だけが残された。
皇帝は玲蘭に向き直ると初めて皇帝としてではなく、一人の「父親」として絞り出すように語り始めた。
「…玲蘭よ。朕は間違っておった。…愚かな息子への愛に目が眩み国の行く末を見誤り、そして何よりそなたというかけがえのない宝の存在に気づきもせなんだ」
「すまなかった…とはもう言うまい。皇帝に謝罪は許されぬ。だが罪を償う機会はまだ残されておるはずだ」
皇帝は側近の宦官に命じ枕元に隠されていた古びた桐の箱を持ってこさせた。
「朕はもう長くないだろう。腐敗した息子にこの国を滅ぼさせるか…それともそなたという未知の可能性に、この国の全てを賭けるか…」
「朕は賭けることにした。…我が娘のその底知れぬ才覚に、この龍の帝国の最後の運命を!」
皇帝が震える手でその箱を開ける。
中に入っていたのは一頭の猛々しい虎が二つに割られた形をした青銅製の割符だった。
それは帝国全軍に絶対的な命令を下すことができる最高指揮権の象徴――「虎符」。
普段は皇帝と大将軍がそれぞれ片方ずつを所持し、二つが合わさって初めて軍を動かす勅命が本物であると証明される。
皇帝はその二つの虎符を両方とも玲蘭に差し出した。
「これを持って行け。これはもはやただの代理の証ではない。朕の全権委任の証である」
「趙子龍を牢から出しそなたの思うがままに軍を動かすがよい」
そして彼は厳しい声で付け加える。
「ただし忘れるな。もしそなたが敗れればこの帝国に明日はない。その責めは全てそなた一人が負うことになる。その覚悟は、あるか」
玲蘭はまっすぐに父を見つめ返し、力強くそして晴れやかな表情で頷いた。
「――覚悟はとうにできております。父上」
彼女は両手で恭しくその二つの冷たくて重い虎符を受け取る。
ずしりとした物理的な重み以上に、そこに込められた数万の兵士の命と帝国の未来そのものの計り知れない「重圧」を彼女は感じていた。
最後の気力を使い果たしたのか皇帝は激しく咳き込み、ベッドに倒れ込む。
そして遠ざかっていく意識の中で娘に最後の言葉を託した。
「…行け。そして勝て…。それが父親としての最初で、最後の…願いだ…」
玲蘭はもはや言葉を発しない父に深々と一度だけ頭を下げる。
それは軍師としてではなく、ただの一人の娘として捧げた父への最初で最後の敬意だった。
彼女は虎符を懐の奥深くへと大切にしまい込むと、振り返ることなくその部屋を後にした。




