龍の天秤
玲蘭がその壮大な「賭け」を提示してからどれくらいの時間が経っただろうか。
皇帝の寝所には蝋燭の芯が爆ぜる音と、老いた皇帝の浅く苦しそうな呼吸の音だけが響いている。
皇帝の心の中では激しい嵐が吹き荒れていた。
天秤の片側には長年愛情を注いできた世継ぎである息子・李誠。これは「過去」と「安定」の重り。
もう片側には存在すら忘れかけていた、しかし底知れぬ才覚を秘めた娘・玲蘭。これは「未来」と「革命」の重り。
帝国の未来をどちらに賭けるべきか。
その重い沈黙を破り部屋の扉が乱暴に開け放たれる。
息を切らして駆け込んできたのは皇太子・李誠とその母である皇后だった。
彼らは玲蘭が禁門を破り皇帝に密会しているという報せを聞きつけ乗り込んできたのだ。
「父上! お騙しになってはいけません! その女は反逆者・趙子龍の息がかかった国の災いでございます!」
李誠は床に広げられた地図と玲蘭の姿を見るなり鬼の首を取ったかのように叫ぶ。
「このような女子供の絵遊びのような地図で父上を誑かそうなどと万死に値します! さあ衛兵! この者を捕らえよ!」
皇后もまた冷たい声で皇帝に決断を迫った。
「陛下。これ以上このような者の戯言にお付き合いになるのは帝国の恥にございます。速やかにご決断を」
皇后派の衛兵たちが玲蘭を取り囲む。
万事休すかと思われたその時、玲蘭はもはや怯えなかった。
彼女は静かに立ち上がると兄である李誠に向き直り、氷のように冷たい声でただ一言問いかける。
「――兄上。ではお尋ねいたしますが貴方様は、この国を救うためのこれに代わる『策』を、お持ちなのでしょうか?」
李誠はその問いにぐっと言葉を詰まらせる。
彼には感情的な非難はできても具体的な対案など何一つ持ち合わせていなかった。
「だ、黙れ! 生意気な小娘が!」
彼はただ子供のように怒鳴り返すことしかできない。
皇帝は目の前で繰り広げられる二人の子供の、あまりにも明白な「器」の違いを痛いほど見せつけられた。
まさにその場の空気が張り裂けんばかりに緊張した、その瞬間。
部屋の外から廊下を駆けてくるけたたましい足音と、伝令兵の上ずった叫び声が響き渡った。
「も、申し上げます! 北方より緊急の伝令にございます!」
部屋に転がり込んできた伝令兵は皇帝の前に平伏すると震える声で報告する。
「――蒼狼国軍、全軍、南下を開始! その進軍経路、そして集結地点は…!」
伝令兵が地図の上で指し示した場所。
それは数日前、玲蘭がただ一人正確に「予言」してみせた場所――『龍涙谷』、そのものだった。
その報告を聞いた瞬間、部屋にいる全ての人間が時が止まったかのように凍りつく。
李誠と皇后は信じられないという表情で顔面蒼白になる。
そして皇帝はゆっくりと、ゆっくりとその視線を床に広がる地図から、目の前に立つ自分の娘へと移した。
彼の心の天秤が今、決定的な音を立てて片方へと大きく、大きく傾いた。




