父と娘
禁門を越え玲蘭が足を踏み入れた皇帝の寝所。
そこは彼女が想像していたよりも遥かに静かで寂しい場所だった。
最高級の調度品は分厚い埃をかぶり、空気は高価な薬草と濃い死の匂いが混じり合って澱んでいる。
天蓋付きの巨大な寝台の上。絹の夜着を纏った父・皇帝は、国の最高権力者とは思えぬほど弱々しく横たわっていた。
「…玲蘭か。何のようだ。このような夜更けに無断で朕の寝所に入るとは…。死にたいのか愚か者めが」
彼の声にはかつての覇気はなくただ苛立ちだけが滲んでいた。
玲蘭は父の怒声に怯まない。
彼女は寝台のそばまで進み出ると対等な人間として衰えた父の目をまっすぐに見つめた。
「――国法を破る非礼、万死に値します。ですがこのままでは父上の国が滅びます」
彼女はゆっくりと顔を上げる。その瞳は涙で潤んではいない。
「父上。わたくしが、あの『顔の無い軍師』にございます」
皇帝は玲蘭の突拍子もない告白に怒りを通り越して呆れ果てる。
「…何を馬鹿なことを。頭がおかしくなったか。それともあの反逆者・趙子龍にそそのかされたか!」
玲蘭は反論しない。
ただ懐から趙子龍が血で書いたあの最後の手紙を取り出し、皇帝の前に静かに広げてみせた。
「父上。まずこれをご覧ください。これは国のために命を懸けて戦い、今反逆者の汚名を着せられて天牢に繋がれている男の魂の叫びにございます」
皇帝はその手紙に書かれたあまりにも実直で揺るぎない忠誠心に、思わず言葉を失う。
(…これが反逆者の書く言葉か…?)
彼の心の中に長年信じてきた息子・李誠への初めての微かな「疑念」が生まれた。
玲蘭は父のその心の揺らぎを見逃さない。
彼女は畳み掛けるように静かに、しかし鋭く問いかけた。
「父上がお創りになったこの国はこのような忠臣を兄宮様のただの嫉妬のためにいとも簡単に切り捨ててしまうような、そんなちっぽけな国だったのですか」
「父上が本当に守りたかったものは一体何だったのですか」
その言葉はもはや臣下の言葉ではない。
一人の「娘」が道を踏み外した「父」に、その魂の在り方を問う悲痛な叫びだった。
皇帝は何も答えられない。
ただ目の前にいるこれまで存在すら忘れかけていた娘の顔を、生まれて初めてまじまじと見つめる。
その瞳は亡き妻によく似ていた。
そしてその瞳の奥に宿る強い意志の光は、若き日の自分自身のそれに驚くほどよく似ていた。
寝室には重い沈黙だけが流れている。
一人は沈みゆく帝国の過去を象徴する老いた龍。
もう一人は昇りくる帝国の未来を象徴する若き龍。
玲蘭はまだ父の心を完全に動かしてはいない。
彼女にはまだ懐にもう一つの「武器」――この国を救うための完璧な「知略」――が残されている。




