黒鷲関、陥落
まだ夜も明けきらぬ薄暗い早朝。
玲蘭は珍しく悪夢にうなされ、汗びっしょりになって目を覚ました。
その直後、後宮の静寂を切り裂くように、けたたましい鐘の音が鳴り響き始めた。
ゴォン、ゴォン、ゴォン―――!
祝い事の澄んだ音色ではない。不規則で、まるで悲鳴のように甲高く、聞く者の不安を煽る凶兆の鐘。
後宮のあちこちで叩き起こされた女官たちの悲鳴や、走り回る宦官たちの足音が聞こえ始め、静かだった世界が一瞬で混乱に包まれていく。
「姫様、大変です!」
侍女の小桃が部屋に飛び込んでくる。しかし玲蘭は既に冷静に着替えを済ませていた。
彼女はいつかこの日が来ることを心のどこかで予期していたのだ。
やがて皇帝の名代である宦官長が蒼白な顔で後宮の全住民に布告を読み上げた。その声は恐怖で震えている。
「――帝国の北門の黒鷲関が昨夜、蒼狼国の奇襲により陥落! 守将・李巌大将軍が壮絶なる討ち死を遂げられた…!」
その言葉の意味を、後宮の誰もが理解した。
黒鷲関。
「天険の要害」と呼ばれる切り立った崖に挟まれた、帝国唯一の北門。
建国以来二百年間、一度も敵に突破されたことのない不敗神話の象徴。
そして何より、ここを失えば首都・黄都までの間には敵の騎馬軍団の進撃を阻むものが何もない、広大な平野が広がっているのだ。
絶対国防線の、崩壊。
布告を聞いた瞬間、後宮は阿鼻叫喚の地獄と化した。
泣き崩れる者、気絶する者、故郷に残した家族を思って絶叫する者。昨日まで華やかな衣装で権力争いをしていた妃たちも、今はただの恐怖に怯える女でしかなかった。
そのパニックの渦の中心で、玲蘭だけがまるで他人事のように微動だにせず立っていた。
彼女の心は悲しみや恐怖よりも、一つの巨大な「知的疑問」に支配されていた。
(ありえない…)
彼女の中の「相川千里」が、高速で思考を巡らせる。
(黒鷲関は正攻法では絶対に落ちない。籠城すれば最低でも半年は持つはず。兵糧も帳簿の上では十分に備蓄されていたはずなのに…)
(『一夜で陥落』? 奇襲? そんなことが、可能なのか?)
彼女の脳裏に前世で学んだありとあらゆる「要塞陥落」の事例が高速でフラッシュバックする。
新兵器による城壁の破壊か? 内部からの手引きか? それとも、予想外のルートからの奇襲か?
いや、どれも当てはまらない。蒼狼国にそんな新兵器はなく、李巌将軍は帝国一の忠臣。そして黒鷲関に裏道など存在しない。
どの事例にも当てはまらない。
玲蘭は公式発表が何か重大な「真実」を隠しているのではないかという強い疑念を抱いた。
「姫様、どうしましょう…! もう、この国は、終わりなのでしょうか…!」
侍女の小桃が泣きながら玲蘭の袖にすがりつく。
玲蘭はその震える肩をそっと抱き寄せた。
彼女の目には初めて明確な「怒り」の光が宿っていた。
それは敵である蒼狼国への怒りではない。このありえない敗北を招いた、自国の「何か」に対する冷徹で知的な怒りだった。
(泣いているだけでは何も変わらない。このままでは小桃も皆も死ぬだけだわ…)
(知らなくては。黒鷲関で、本当に何が起きたのか。真実を知らなければ、次の一手は打てない)
彼女はパニックに陥る人々を横目に静かにその場を離れる。
彼女が向かう先は安全な書庫ではない。
この後宮の中で最も生々しい「戦場の情報」が集まる場所――負傷兵たちが運び込まれる、薬草院だった。




