文(ふみ)に込めた覚悟
静思堂。
涙の夜が明け玲蘭は夜通し何かを書き続けていた。
彼女の顔にはもう迷いも苦悩の色もない。あるのは夜明けの空のように澄み切った覚悟の表情だけだった。
王皓月はそんな彼女の姿を少し離れた場所から静かに観察している。
(…姫様は何かを乗り越えられた。もはやただの少女ではない。国を背負う『王』の顔つきだ…)
玲蘭は書き上げたばかりの巻物を王皓月に手渡した。
「王皓月。これを趙子龍殿の元へ。皇后の目を掻い潜る特別な経路で」
王皓月は預かった巻物にちらりと目を落とす。
そこに書かれていたのはこれまでの軍事的な指令とは明らかに質の違う、力強い言葉だった。
「趙子龍殿へ。貴官からの報告書、確かに拝読した。感謝する。敵を知り己を知れば百戦危うからず。貴官の『目』のおかげで我々は敵とそして我ら自身の真の姿を知ることができた」
「貴官が迷う気持ちは分かる。だが迷うことはない。我らが戦うべきは蒼狼国という『国』ではない。民を苦しめる『不条理』そのものであると心に定めよ」
「テムジン殿が傑物であるならば我々はそれを上回る『大義』と『理想』をこの国に打ち立てねばならない。それは家柄や民族ではなくただこの国に生きる全ての民が笑顔で暮らせる世を創るという覚悟だ」
「――貴官をその理想を共にする我が『同志』と信じている」
最後の言葉。
これまで玲蘭は子龍を「我が剣」と表現してきた。しかしここでは初めて対等なパートナーである「同志」という言葉を使っている。
王皓月は二人の関係性が新たなステージに進んだことを悟った。
***
北の陣営。
子龍は「ヒスイの谷」の報告以来深い混乱と迷いの中にいた。
自分が信じてきた「正義」が揺らぎ何のために剣を振るうべきか分からなくなっていたのだ。
そこに玲蘭からの手紙が届く。
彼はそこに書かれている言葉を、一言一句噛みしめるように読んだ。
玲蘭からの力強い言葉。それは彼の心の霧を一瞬で吹き払う光そのものだった。
(…そうか。そうだったのか先生…!)
(俺はただ黄龍帝国という『国』のために戦っているのではなかった)
(俺が守りたかったのは国そのものではなく、国の中にいる名もなき村人たちのようなあの笑顔だったのだ!)
(先生は俺が心の奥底で感じていた言葉にできなかった想いを、完璧な『大義』として示してくださった…!)
子龍は手紙を胸に抱き天を仰ぐ。彼の瞳から迷いは完全に消え失せていた。
(先生…いや我が『同志』よ。この趙子龍、これよりは師が示すその新しい国のための真の剣となりましょう。たとえこの身が折れ、帝国そのものを敵に回すことになったとしても…!)
子龍は手紙と共に届けられたもう一つの小さな包みを開けた。
中には玲蘭が宮中の薬草院から取り寄せ自ら調合した上等な傷薬と、兵士たちのための凍傷予防の薬草が入っていた。
それは「兵を大切にせよ」という言葉にはしない彼女からのメッセージだった。
二人はまだ互いの顔も声も知らない。
しかし彼らの心は「新しい国を創る」という一つの燃えるような理想によって、誰にも断ち切ることのできない強く確かな絆で結ばれていた。
だが彼らのその高潔な理想が古い帝国の闇――皇后の執念や第一皇子の嫉妬――とこれから激しく衝突することになるのを、二人はまだ知らなかった。




