軍師の涙
静思堂。
皇后の監視の目が厳しくなり玲蘭は息を潜めるような日々を送っていた。
その夜、王皓月がいつになく緊張した面持ちで一通の巻物を彼女に届けた。
趙子龍からの「ヒスイの谷」の調査報告書だった。
玲蘭はその報告書を読む前からそこに何が書かれているかをある程度予測していた。
古い交易記録や地方誌の片隅に記された記述から蒼狼国が征服した一部の民を例外的に懐柔している可能性に気づいていたのだ。
彼女の目的はその事実を子龍の「目」を通して確認することにあった。
しかし子龍の報告書に書かれていた内容は彼女の予測を遥かに超えるものだった。
単なる懐柔策ではない。進んだ技術を与え税を軽くし民を豊かにする積極的な「善政」。
村の長老が語ったというテムジンの「お前たちも今日から俺の民だ」という言葉。
玲蘭はその報告書を読みながら震えが止まらなくなる。
(私が戦っているのは…ただの侵略者ではなかった)
(彼は古い国の殻を打ち破り民族の垣根を越えた新しい『帝国』を本気で創ろうとしている…!)
彼女は敵将テムジンの中に前世で学んだ歴史を創る「英雄」の姿を見た。
それと同時に自国・黄龍帝国の現実が嫌でも浮かび上がってくる。
民から搾取することしか考えない私利私欲の貴族たち。
責任のなすりつけ合いに終始する腐敗した朝廷。
そして自分の息子を帝位につけるためなら国を売ることさえ厭わない皇后…。
(どちらが民を幸せにできるというの…? テムジンの蒼狼国かそれともこの腐りきった黄龍帝国か…?)
(私がやっていることは本当に『正義』なの…? もしかしたら私は歴史の必然にただ逆らおうとしているだけなのではないの…?)
玲蘭は軍師として、そしてこの国を守ろうとする者としてその存在意義の根幹を揺るがされた。
これまで信じてきた「帝国を守る」という大義が、果たして本当に正しいことなのか分からなくなってしまったのだ。
この苦悩は誰にも相談できない。
玲蘭は静思堂の床に広げられた巨大な地図の上に突っ伏す。
彼女の目からぽろぽろと涙がこぼれ落ち羊皮紙の上に小さな染みを作っていく。
それはこれまで流してきたどの涙とも違う、自分の信じる正義を見失ってしまった深い深い孤独の涙だった。
(私は何と戦えばいいの…?)
どれくらいの時間そうしていただろうか。
涙が涸れた頃、玲蘭はぼんやりと地図を眺めながら一つの答えにたどり着く。
(…そうか。私が戦うべきは『蒼狼国』ではない)
(私が戦うべきは『黄龍帝国』でもない)
(私が戦うべきなのは民を不幸にする全ての『不条理』そのものなのだわ)
彼女の戦う目的がここで昇華された。
「国を守る」という既存の枠組みから「より良い国をこの手で創る」というより能動的でより普遍的な「理想」へと。
そのためにはまずこの腐りきった黄龍帝国を内側から変革しなければならない。
玲蘭は涙の跡が残る顔を上げ窓の外の月を見上げる。その瞳にはもう迷いはなかった。
彼女は軍師としてそして未来の「革命家」として、静かに、しかし固く覚悟を決めた。




