皇后の執念
皇后の私室。
燻らせた香の煙の中で皇后は目を閉じ瞑想に耽っている。
しかしその静寂は彼女の内心で燃え盛る激しい苛立ちと屈辱を隠すためのものだった。
(…忌々しい。忌々しい、忌々しい…!)
(田舎者の若造(趙子龍)と、その背後にいるどこの馬の骨とも知れぬ『軍師』ごときに、我が息子・李誠の、そしてこの私の栄光が脅かされてなるものか…!)
彼女が許せないのは国の危機ではない。自分たちの権威が自分たちのコントロールできない場所で揺るがされているという事実そのものだった。
皇后が指を鳴らすと音もなく一人の痩せた宦官が姿を現す。
彼は公式な役職にはついていないが皇后が私的に抱える諜報部隊「黒蜘蛛」の長だった。
皇后は冷たい声でその宦官に命令を下す。
「『顔の無い軍師』の正体を何としても突き止めなさい」
「奴は必ず趙子龍と何らかの方法で情報のやり取りをしているはず。前線と帝都を結ぶ全ての伝令、商人、旅人を洗いなさい」
「特にあの大宦官・王皓月の動きには注意を払うこと。あの食えない男がこの件に一枚噛んでいないはずがないわ」
「御意」
黒蜘蛛の長は感情のない声で答えると影に溶けるように消えていく。
その日から帝都と前線の間で目に見えない「検閲」が始まった。
前線へ向かう商人の荷物が関所で理由もなく徹底的に調べられる。
伝書鳩を飼っている鳩舎が夜中に何者かに襲われ鳩が全て殺される。
王皓月の配下の宦官が任務の帰り道でチンピラに絡まれて暴行を受ける。
そして皇后の魔の手はついに王皓月自身にも及んだ。
皇后は王皓月を自室に呼び出し探りを入れる。
「王皓月。あなたは帝国の全てを見通す『目』と聞きます。かの軍師について何かご存じではないかしら?」
「滅相もございません。わたくしめもその憂国の士に一度はお目にかかりたいものだと願っておりますが…」
「そう」
皇后は彼の茶器に熱い茶を注ぎながら言った。
「…けれどもし何かを知っていながらそれを隠している者がいるとすれば…それは国への裏切りと同じですわね。そのような者はこの熱い茶を頭から浴びせられても文句は言えませんことよ」
笑顔の下に隠された明確な脅迫。
しかし王皓月はその脅しにも完璧なポーカーフェイスで応じる。
「皇后陛下のお言葉、肝に銘じまする」
彼は皇后に一切の尻尾を掴ませなかった。
皇后の元を辞した王皓月はその足で静思堂へ向かう。
彼はそこで何があったかを玲蘭には話さない。ただいつもより少しだけ硬い表情でこう告げるだけだった。
「――姫様。しばらくの間趙子龍殿との手紙のやり取りはお控えください」
「どうしてです?」
「…巣穴の近くで猟犬の匂いが致しますゆえ」
玲蘭は王皓月のその言葉だけで全てを察した。
皇后の調査の刃が自分のすぐ喉元まで迫っていることを。
これまで安全だと思っていた静思堂がもはやそうではないことを。




