賢妃(けんひ)の涙
双龍谷の敗戦後、帝都の空気は重く沈んでいた。
後宮も例外ではなく華やかな茶会は鳴りを潜め、妃たちは自室に閉じこもりがちになっていた。
敗戦の責任を巡る騒動は玲蘭の情報操作によって一応の決着を見た。しかしその裏で権力闘争はより陰湿な形で続いていたのだ。
「顔の無い軍師」を支持していた賢妃派(第二皇子派)は、皇后派からの執拗な攻撃を受け窮地に立たされていた。
ある夜、玲蘭は静思堂からの帰り道、庭園の東屋で一人静かに涙を流している人影を見つける。
それは第二皇子の母であり皇后に次ぐ地位を持つ賢妃だった。
彼女は聡明で心優しいが、それ故にこの後宮の権力闘争を生き抜くには少しだけ気が弱い女性だ。
玲蘭の気配に気づいた賢妃は最初は警戒するが、玲蘭がどの派閥にも属さない無害な存在であることを知ると、堰を切ったようにその苦しい胸の内を吐露し始めた。
「…皇后様とその一派の方々が、今回の敗戦は我らが謎の軍師などを持ち上げたせいだと…」
「私の兄(地方の将軍)までが朝廷で『敗戦主義者』と罵られ左遷させられそうなのです…」
「もうどうすればよいのか…私の息子も私も、もう…」
玲蘭は涙にくれる賢妃を見ながら冷静に状況を分析していた。
(なるほど…賢妃派は今や風前の灯火。しかし彼女をここで見捨てるのは得策ではない)
(皇后派がこれ以上権力を増大させるのは危険だ。後宮内に皇后派を牽制できる勢力は残しておかなければならない)
(そして何より…窮地にいる人間は少しの助けで大きな恩義を感じるものだわ)
玲蘭は純粋な同情からだけでなく、極めて戦略的な計算に基づいて賢妃に助けの手を差し伸べる。
彼女はそっと賢妃の隣に座ると、まるで世間話でもするかのように静かに、しかし的確な「処方箋」を授けた。
「賢妃様。嵐の時には大きな木ほど風に逆らって折れやすいものにございます。しかししなやかな柳はただ頭を垂れることで嵐が過ぎ去るのを待つことができます」
「今は戦う時ではございません。むしろ病を理由にしばらく表舞台から退き皇后様への『恭順の意』を示されるのです。敵意のない相手を皇后様もそれ以上は攻撃できなくなります」
「嵐は、いずれ必ず皇后様ご自身の足元から吹き荒れることになりましょう。その時まで力を蓄えてお待ちください」
賢妃は年若い病弱なはずの皇女が、まるで老練な政治家のように全てを見通していることに驚愕する。
しかしその言葉には不思議な説得力があった。
彼女は藁にもすがる思いで玲蘭の助言に従うことを決意した。
「…ありがとう第三皇女殿。貴女は私の…いいえ私達親子の命の恩人です。このご恩は決して忘れません」
賢妃は玲蘭に深々と頭を下げて去っていく。
彼女はまだ玲蘭が「顔の無い軍師」であることには気づいていない。しかしこの日を境に彼女は玲蘭をただの無力な皇女ではなく、信頼できる「相談役」として心服するようになった。
一人残された玲蘭は夜空を見上げる。
(これでいい。これで後宮の盤面はひとまず膠着状態に持ち込めた)
(今はまだ小さな駒が一つ手に入っただけ。でもこの駒が、いずれ皇后の『王』を詰むための重要な一手になるかもしれない)
彼女は軍事的な戦場だけでなく後宮という政治的な戦場においても、着実に自分の足場を固め始めていた。




