偽りの情報
双龍谷の大敗北の報を受け、帝都の朝議は通夜のような雰囲気に包まれていた。
しかしその静けさの下では、激しい「責任のなすりつけ合い」が始まっていた。
「陛下! これは現場の将軍が功に逸って突出したのが原因! わたくしの責任ではございません!」
出撃を許可した宰相が叫ぶ。
「何を言う! そもそもあの『顔の無い軍師』なる怪しげな者の出現が敵を刺激し今回の惨事を招いたのだ!」
大将軍派閥がそれに反論した。
失敗が起きた時、原因究明や再発防止ではなく犯人捜しと責任転嫁に終始する。
組織が崩壊する末期症状そのものだった。
議論という名の罵り合いの末、彼らはこの大失態の責任を負わせるための格好の「スケープゴート」を見つける。
「そうだ! 『顔の無い軍師』が偽の情報をもたらしたのです。我らはそれに踊らされただけだ!」
「きっとあの趙子龍と軍師は裏で繋がっているに違いない! 自分たちの手柄を際立たせるためにわざと他の部隊を罠に嵌めたのだ!」
この流れに皇后派が乗じる。
民衆から支持を集め始めている「軍師と子龍」のコンビは、彼らにとって目障りな存在だった。
この危険な空気の変化は即座に王皓月を通じて玲蘭の元へ届けられる。
「姫様、このままでは趙子龍殿までが反逆者として捕らえられかねません…!」
報告を聞いた玲蘭はそのあまりの理不尽さに唇を噛みしめた。
しかし彼女は悲しみに沈んでいる暇はないと自らを奮い立たせる。その瞳は悔し涙ではなく冷徹な計算の色を宿していた。
(…そう。これが権力闘争。これが政治)
(盤上で駒を動かすだけでは勝てない。盤の外…人の心を動かす『情報』を制さなければ)
玲蘭は王皓月に静かに、しかし力強く指示を出す。
「王皓月。貴方の『耳目』を総動員なさい」
「今から私が言う『物語』を、この都中に流行らせるのです」
玲蘭が作った「物語」はこうだ。
「――聞きましたか? 双龍谷の戦いの真相を」
「実はあの天才軍師殿はあれが罠であることを見抜き、出撃前に『決して動くな』と朝廷に何度も警告を送っていたらしいのです」
「しかし手柄を独り占めしたかったあの愚かな将軍が、軍師殿の警告を無視して勝手に突撃してしまったのだとか…」
「おかげで三千もの兵士たちが犬死にさせられたのですよ…!」
王皓月の配下の宦官たちはプロの情報工作員だった。
彼らは井戸端会議の主婦、酒場の酔客、市場の商人…あらゆる場所に紛れ込み、この「物語」をさも真実であるかのように都中に拡散させていく。
この噂は真実(罠は見抜いていた)と嘘(警告は出していない)が巧みに織り交ぜられており、非常に信憑性が高かった。
民衆は腐敗した貴族や将軍たちよりも、一度奇跡の勝利をもたらしてくれた謎の天才軍師の方を信じた。
非難の矛先は軍師や子龍から、敗戦した将軍とそれを止められなかった朝廷へと一気に逆転する。
静思堂。玲蘭は都の空気の変化を肌で感じていた。
(これが情報戦…。血の流れないもう一つの戦場)
彼女はこの戦いを通して軍略とはまた違う、新しい「力」の使い方を学んだ。
それは人の心を操り世論を味方につけるという恐ろしくも強力な力だった。
(テムジン…貴方が盤上の罠で私を試すなら、私はこの盤外の戦場で貴方に応えましょう)
彼女の瞳はもはや北の戦場だけではない。帝都というより複雑でより厄介な戦場全体を見据えていた。




