初めての敗北
功に逸る帝国軍の将軍が率いる三千の主力部隊が、意気揚々と双龍谷へと進入していく。
谷の奥にはテムジンの罠である小規模な補給部隊の姿が見えた。
(馬鹿な蛮族どもめ! 我が武名の前にひれ伏すがよい!)
将軍はなんの疑いもなく全軍に突撃命令を下す。兵士たちも楽な戦だと信じ込み、雄叫びを上げて敵の補給部隊へと殺到した。
帝国軍が完全に谷の中心部に入りきった、その瞬間。
谷を見下ろす丘の上でテムジンが静かに右手を振り下ろした。
それが狩りの始まりを告げる合図だった。
谷の入口と出口に潜んでいた蒼狼国の別動隊が鬨の声を上げて出現し、帝国軍の退路を完全に遮断する。
谷の両側の丘陵地帯から待ち構えていた一万の弓兵が一斉に矢を放った。空が黒い雨で覆われる。
谷底に密集していた帝国軍は身動きも取れないまま格好の的となり、盾を構える暇もなく兵士たちは次々と射抜かれていった。
混乱の極みに達した帝国軍の側面に丘を駆け下りてきた蒼狼国の精鋭騎馬隊が突撃する。
それはもはや戦闘ではなく一方的な虐殺だった。
将軍は何が起きたのか理解できないまま真っ先に討ち取られた。
***
その頃、趙子龍の部隊は玲蘭からの「決して動くな。双龍谷には近づくな」という厳命を守り、遠く離れた森の中に潜んでいた。
しかし風に乗って遠い双龍谷の方角からおびただしい数の悲鳴と戦闘の音が聞こえてくる。
やがて空には何かが燃える黒い煙が立ち上るのが見えた。
「将軍! 味方がやられている! 助けに行きましょう!」
兵士たちが逸るが子龍は唇を噛みしめ首を横に振る。
「…これは罠だ。行けば我らも犬死にするだけだ」
彼は軍師「先生」の予測が恐ろしいほど正確であったことに戦慄すると同時に、見殺しにするしかない仲間たちの死に深い無力感を覚えていた。
数時間後、彼の元に鎧は砕け血まみれになった数人の兵士がほうほうの体で逃げ込んでくる。
「…全滅だ…我々の部隊は、全滅した…」
生き残ったのは三千のうちわずか数十名だった。
***
後宮の静思堂。
玲蘭は窓の外を見つめたまま石のように動かずにいた。
彼女にはもう王皓月からの報告を待つまでもなく全てが分かっていた。
夕刻、王皓月が蒼白な顔で現れる。
「…姫様。双龍谷の部隊は…全滅、にございます」
その言葉を聞いた瞬間、玲蘭の膝ががくりと折れた。
彼女はその場に崩れ落ち床に手をつく。
(私の、せいだ…)
(私が『顔の無い軍師』としてテムジンを本気にさせてしまったから…)
(私がもっと早く朝議を止める力を持っていれば…!)
彼女は初めてのそして決定的な「敗北」の責任を一身に感じていた。
床にぽつりと冷たい雫が落ちる。
それは彼女の目からこぼれ落ちた悔し涙だった。
(テムジン…貴方はこれほどの相手だったのね…)
(分かったわ。もう小手先の策だけでこの国は守れない)
彼女は涙を拭い顔を上げる。
その瞳には深い悲しみと、しかしそれ以上に最強の好敵手に対する燃えるような闘志が宿っていた。




