不穏の風は北から
季節は秋の終わり。後宮の庭園の木々が最後の葉を落とし始めていた。
玲蘭は静思堂の窓辺で冷たさを増した風を感じている。
(今日の風は、いつもと匂いが違う…)
彼女は風の中に土埃と微かな鉄錆のような匂いを感じ取っていた。もちろんそれは彼女の気のせいだ。前世の記憶がもたらす、戦場のイメージからの連想に過ぎない。
だが、その予感は妙に現実味を帯びていた。
(北の草原では、冬を前にしたこの時期が略奪の季節。…嵐は、もうすぐそこまで来ている)
「姫様、大変です!」
その予感を裏付けるかのように、侍女の小桃が青ざめた顔で静思堂に駆け込んできた。
「北方の国境で、蒼狼国と本格的な戦が始まったと…!」
小桃がもたらすのは下女たちの間で囁かれる断片的な情報だった。希望的観測と恐怖による誇張が入り混じり、真実がどこにあるのか判然としない。
「我が国の李巌将軍が敵兵一万人を斬り伏せたらしいです!」
「いえ、敵の王様…『大単于』は妖術を使うという話で…!」
「もう国境の砦は全部落ちたって…」
玲蘭はパニックになる小桃を優しくなだめる。しかし彼女の頭の中は高速で回転していた。
(情報が錯綜しすぎている。これは戦況が拮抗しているか、あるいは中央に正確な情報が全く届いていない証拠。どちらにしても良い状況ではないわ)
小桃が興奮気味に続ける。
「大単于、テムジンという名はご存知ですか? なんでも数多の部族をたった数年でまとめ上げた鬼神のような男だとか。歳はまだ二十代前半だそうです」
テムジン。その名前に玲蘭は聞き覚えはなかった。
しかしその情報から彼の人物像をプロファイリングしていく。
(数年で部族を統一…? それはただ腕っぷしが強いだけでは不可能。旧来の部族間の対立を乗り越えさせるほどの圧倒的なカリスマか、あるいは極めて合理的な利益分配のシステムを作り上げた天才的な政治家…)
(二十代前半。若い。若さゆえの過ちを犯す可能性もある。逆に古い常識に囚われない大胆な戦術を取ってくる危険性も高いわね)
玲蘭はまだ見ぬ敵将を、決して侮れない、自分と同等かそれ以上の「知性」を持った存在として認識し、静かな警戒心を抱いた。
その日の夕刻、玲蘭は気分転換に回廊を歩いていると、少し先を歩く大宦官・王皓月の姿を見かけた。彼は側近の若い宦官と深刻な表情で何かを話している。
玲蘭はとっさに柱の影に隠れ、その会話に耳を澄ませた。
「…宰相閣下は、今回も銀や絹を贈って穏便に済ませるおつもりのようです」
若い宦官の声だ。それに応える王皓月の声は、深い憂いを帯びていた。
「…あの若き狼が、そんな手切れ金で満足すると本気でお思いなのかね。大将軍は『今こそ蛮族の首を』と息巻くだけで、具体的な策はない」
「では、我々はどうすれば…」
「今はただ嵐が過ぎ去るのを待つしかない。…もっともこの国に、その嵐に耐えられるだけの力があればの話だがな」
王皓月は深くため息をつくと、そのまま立ち去っていった。
玲蘭は柱の影から出て、一人北の空を見上げる。
彼の言葉が、この国の絶望的な現状を、何よりも雄弁に物語っていた。
(誰も、本当の危機に気づいていない。気づいているのは、あの宦官と…そして、おそらくこの後宮の片隅にいる私だけ)
彼女の顔には、もはや傍観者ではいられないという強い覚悟と、かすかな使命感が宿り始めていた。
(嵐はもうすぐそこまで来ている。そして、この国には傘がない)




