蒼き狼の罠
蒼狼国の本陣。
大単于・テムジンは巨大な軍事地図を前に瞑想するように目を閉じていた。
彼の頭の中では趙子龍の部隊の動きと、その背後にいる「狐」の思考を繰り返しシミュレートしていた。
(あの狐、実に用心深い。こちらの誘いには一切乗ってこない。ゲリラ戦に徹し少しずつこちらの体力を削るつもりか)
(だがその策が有効なのは、狐が自分の『駒』を完全にコントロールできている場合だけだ)
(帝国の弱点は組織の脆さ。指揮系統の不統一。――ならば狙うべきは狐の駒ではない。その駒を動かす愚かな『飼い主』の方だ)
テムジンは部下たちに命令を下した。
「あえて小規模で護衛の薄い補給部隊を一つだけ孤立させろ」
「その進軍ルートは、いかにも『ここで襲ってください』と言わんばかりの、奇襲に適した『双龍谷』を通らせる」
「そしてその谷を見下ろす両側の丘陵地帯に、我が軍の精鋭騎馬隊一万を息を殺して潜ませておけ」
この作戦の狙いは趙子龍の部隊ではない。
このあまりにも分かりやすく甘い「餌」に、功を焦った帝国軍の「他の部隊」が食いついてくることをテムジンは確信していた。
彼は謎の軍師ではなく帝国軍全体の「愚かさ」を試していたのだ。
テムジンの思惑通り「双龍谷に無防備な敵の補給部隊あり」という情報はすぐに黄龍帝国の朝廷にもたらされた。
前回の手柄に乗り遅れた将軍たちは今度こそ自分たちが手柄を立てようと狂喜乱舞する。
「見よ! 敵は趙子龍の活躍に怯え尻尾を巻いて逃げようとしているのだ!」
「今こそ全軍で追撃し蛮族どもを北の果てまで叩き潰す好機!」
「陛下! ご決断を!」
宰相もこの熱狂的な主戦論を止められない。ここで反対すれば自分が臆病者と罵られ失脚しかねない。
皇帝もこの熱狂に流され、ついに趙子龍の部隊ではない別の将軍が率いる主力部隊の一つに出撃命令を下してしまった。
***
後宮の静思堂。
王皓月から朝議の決定を聞いた玲蘭の顔から血の気が引く。
(罠だ…! これほど分かりやすい罠があるものか!)
彼女は地図を広げ双龍谷の地形を指し示した。
「この谷は入口と出口さえ塞げば中の軍勢は袋のネズミになる天然の罠所。なぜそれに誰も気づかないの!」
彼女には丘陵地帯に潜む数万の敵兵の姿が目に見えるかのように分かっていた。
玲蘭はすぐに作戦中止を求める警告文を書き王皓月に託す。
しかし王皓月は静かに、しかし絶望的な事実を告げた。
「…姫様。もう手遅れにございます。功に逸った将軍は既に軍を動かした後。一度下された勅命を今から覆すことは誰にもできませぬ」
玲蘭は窓の外、北の空を見つめる。
そこには数千の味方の兵士たちが自分たちの墓場とも知らず、意気揚々と進軍していく幻が見えた。
(行かないで…! そっちは死への道よ…!)
彼女の声なき叫びは誰にも届かない。
自分の力が及ばない場所で味方が国の組織的な愚かさによって死地に赴こうとしている。
その現実に彼女はこれまで感じたことのない深い無力感と絶望に打ちひしがれた。