皇后の茶会
静思堂。
玲蘭は趙子龍に送る次の指令書を作成している。
その静寂を破り、侍女の小桃が、一枚の豪華な招待状を手に興奮と不安が入り混じった顔で駆け込んできた。
それは後宮の事実上の支配者である第一皇子の母・皇后が主催する、最高位の妃しか招かれない茶会の招待状だった。
これまで十六年間、一度として呼ばれたことのなかった玲蘭の元に、なぜ今、これが届いたのか。
「姫様、大変です! 皇后様はきっと姫様が最近ご健康になられたと聞いてお喜びなのですよ!」
小桃は主君がようやく後宮社会に認められたのだと無邪気に喜んでいる。
しかし玲蘭は、その招待状の裏にある冷たい意図を瞬時に見抜いていた。
(違う…これは祝意ではないわ。尋問よ)
(北の戦況が、あの『顔の無い軍師』の出現で動き始めた。皇后派はその正体を探っている。そしてこれまで目立たなかった私が何らかの形で関わっているのではないかと疑い始めたのね…)
玲蘭は王皓月に相談した。
「病を理由に断るべきでしょうか?」
「いえ姫様。ここで逃げればかえって相手の疑いを深めるだけ。あえて敵の懐に飛び込み、貴女様が『無害な、ただの病弱な姫』であることを完璧に演じきるのです」
玲蘭は覚悟を決めた。
これまで避けてきた後宮という名の戦場。今、自らそこへ足を踏み入れなければならない。
彼女は小桃に「一番地味で目立たない衣を用意してちょうだい」と命じた。
後宮の服装には政治的な意味がある。
派手な衣装は自己主張であり他派閥への挑戦と見なされる。逆に地味すぎる衣装は相手を軽んじていると受け取られかねない。
玲蘭はその中で最も絶妙な「誰の記憶にも残らない当たり障りのない」衣装を選んだ。これもまた彼女の計算だった。
茶会の会場はきらびやかな衣装を纏った妃たちが笑顔の仮面の下で互いの腹を探り合う華やかな地獄だった。
高価な茶器、珍しい菓子、そして毒を含んだ甘い会話。
玲蘭は会場の隅でただひたすらに気配を消す。誰かに話しかけられればか細い声で当たり障りのない返事をし、時折体調が悪いかのように小さく咳き込んでみせる。
完璧な「病弱で内気な書庫の姫」の演技だ。
そしてついに本日の主役である皇后が、威厳と蛇のような冷たい微笑みを浮かべて玲蘭の元へやってきた。
周囲の妃たちの視線が一斉に彼女に突き刺さる。
尋問が始まった。
「まあ第三皇女殿。お加減はいかがかしら? いつもお一人で書庫に籠っておられると聞きますが、さぞ物知りでしょうね」
「もったいのうございます皇后陛下。わたくしなどただ書物の埃を払っているだけで…」
皇后は優雅に茶を一口飲むと核心の質問を投げかける。
「近頃、北の戦場で『顔の無い軍師』とやらが名を上げているそうね。書物ばかり読んでいる貴女ならその軍師がどのような者か見当がつくのではないかしら?」
それは逃げ場のない絶対絶命の問いだった。
玲蘭の背中に冷たい汗が流れる。ここで少しでも動揺を見せれば全てが終わる。
しかし玲蘭は完璧な笑顔の仮面を崩さない。彼女は一瞬だけ目を伏せ思案するふりをした後こう答えた。
「…恐れながら皇后陛下。わたくしの読む古い物語によりますと『真の軍師』というものは決してその姿を見せずただ勝利という結果のみを静かに君主へ捧げるものだとか」
彼女はそこで言葉を切るとか細い声で咳き込みながら続ける。
「もしそのような方が現れたのだとすればそれは帝国の幸い。わたくしのような無力な者にはただ父帝様のご健康と兵の方々の無事を、書庫の片隅で祈ることしかできませんわ…」
その答えは完璧だった。
博識さを示しつつも徹底的に無害で政治に無関心な立場を貫き、さらには皇帝への忠誠心までアピールしてみせた。
皇后は「…そうですか」と興味を失ったかのように微笑む。
しかしその目の奥には初めて玲蘭という存在を「侮れない」と認識した冷たい光が宿っていた。
玲蘭は静かに頭を下げながら確信する。
(…見抜かれたかもしれない。でも今はこれで凌ぐしかない)
彼女は後宮という戦場での最初の戦いをかろうじて生き延びた。
しかしこれはこれから始まる長い戦いのほんの序曲に過ぎないことを、彼女は誰よりも理解していた。