見えざる敵の影
黄龍帝国の最前線から遥か北。
蒼狼国の本陣は、何千もの移動式住居が立ち並び無数の馬が嘶く活気に満ちた場所だった。
最も大きなゲルの中心。豪華な毛皮の上に胡坐をかいて座る一人の若者。
それが大単于・テムジン、二十四歳。
日に焼けた精悍な顔つきに獲物を狙う狼のように鋭い金色の瞳を持つ、この草原の絶対的な覇者だ。
「帝国の豚どもは相変わらず城に籠って震えているだけか」
「将軍は老いぼればかり。戦を知らぬ文官に顎で使われる牙の抜けた犬よ」
部下たちの嘲笑を聞きながらテムジンは退屈そうに報告書に目を通していた。
先の補給部隊壊滅事件の最終報告だ。
「…襲撃してきたのは趙子龍と名乗る若造が率いる五百程度の残党部隊。まぐれ当たりと我が軍の油断が招いた不覚にございます」
斥候隊長の言葉にテムジンは眉をひそめる。
彼は他の部下たちが見過ごしている報告書の中のいくつかの小さな「ノイズ」に気づいていた。
(まぐれ当たり…? 五百の残党が護衛のいる補給部隊を完璧なタイミングで最小限の損害で殲滅する…? そんな偶然があるものか)
(趙子龍…? 聞かぬ名だ。なぜこれほどの奇襲を成功させられる将が、これまで歴史の陰に隠れていた?)
彼は感情や思い込みで判断しない。常に客観的な事実と論理だけで物事を分析する。
この一連の出来事の裏に、何か自分がまだ知らない「変数」が存在していることを直感していた。
そこに別の斥候が駆け込んでくる。
彼がもたらしたのは趙子龍の部隊のその後の動向だった。
「趙子龍の部隊、我が軍との正面衝突を巧妙に避け斥候部隊や小規模な輸送隊のみを狙うゲリラ戦を展開中!」
「また不可解なことに彼らは占領地の村々から略奪を行わず、むしろ交易を行い民の支持を得ている模様!」
「その結果、我が軍は占領地での情報収集が困難に…!」
その報告を聞いた瞬間、テムジンの脳裏で全てのピースが繋がった。
(…そういうことか)
(あの奇襲はまぐれではない。趙子龍という男もただの将ではあるまい。だが本当の敵はそいつ自身ではない)
(この一連の動きを裏で操っている『頭脳』がいる。俺の思考を帝国の弱点をそして人心掌握の重要性までを理解している、見えざる『誰か』が…!)
退屈そうにしていたテムジンの金色の瞳に初めて本物の闘志の光が宿る。
それは好敵手を見つけた狩人の目だった。
部下たちは自分たちの王が初めて「本気」になったことを感じ取り、ゴクリと息を呑む。
テムジンは立ち上がると猛々しい笑みを浮かべて全軍に宣言した。
「面白い…! 実に面白い! この俺と知恵比べをしようという命知らずがいるらしい!」
「全軍に告ぐ! 小賢しいネズミを追い回すのはもうやめだ!」
「罠を張れ。そのネズミを操っている見えざる『狐』を、この俺が直々に狩り出してやる!!」
最強の敵が初めて明確に「玲蘭」の存在を認識し、彼女を狩るための罠を仕掛けてくることを決意した瞬間だった。
物語はここから天才同士の息もつかせぬハイレベルな知略戦へと突入していく。