軍師からの下問
玲蘭が涙を拭い覚悟を決めた、あの夜。
王皓月は改めて彼女に深々と頭を下げた。
「――お覚悟、見事にございます、我が姫。…いえ、『我が軍師殿』」
「これよりこの王皓月、姫様の『目』となり『耳』となりましょう。朝廷の、後宮の全ての情報はわたくしが姫様の元へお届けいたします」
あの献策の紙の出所は誤魔化したつもりだったが、あっさりバレていたようだ。ならばと、玲蘭は覚悟を決めた。
「…感謝します王皓月。では貴方にはわたくしの『手』にもなっていただきます」
玲蘭は自分が書いた献策を秘密裏に前線の趙子龍へ届けるという、最も危険な役目を彼に依頼した。
王皓月は、確かな覚悟を持って受け入れた。
(この国はもう長くはない。腐敗した貴族どもに任せておけば滅びは必定。ならばこの得体の知れない、しかし本物の『才』を持つ少女に全てを賭けてみるのも面白い…!)
その日から静思堂はただの書庫ではなくなった。
王皓月が彼の配下の宦官たちを使って密かに運び込む情報で溢れかえる。
朝議の議事録の写し。各地から届く戦況報告。敵国・蒼狼国の商人から得た敵の内情に関する噂話。
玲蘭はその膨大な情報を驚くべき速さで処理していく。
重要情報、信憑性の低い情報、後で分析すべき情報…。前世の大学院で何千もの論文や資料を読みこなしてきた経験がここで活きる。
彼女はただ情報を読むだけではない。「この報告書は数字が誇張されている」「この噂の出所は敵の流した偽情報かもしれない」というように情報の「裏」まで読み解こうとしていた。
情報整理が一段落した玲蘭に王皓月が白紙の巻物と筆を差し出す。
「さて軍師殿。前線で吉報を待つ若き獅子へ、次なるご命令を」
玲蘭は一瞬ペンを走らせそうになった。
彼女の頭の中には既に次の一手、二手先までの完璧な作戦計画がいくつも浮かんでいた。
しかし彼女は寸でのところでその衝動を抑える。
(…いえ、待ちなさい相川千里。ここは貴方のいた世界ではない)
(机上の計算だけで駒を動かしてはいけない。現場には私が知らない無数の変数があるはずだわ)
彼女は自分の知識への万能感を戒め、現場の人間への敬意を払った。
彼女が悩んだ末に書き出したのは命令(Order)ではなく質問(Question)――すなわち「下問」だった。
「趙子龍殿へ。まず先の勝利見事であった。兵たちの労を十分にねぎらわれたい」
「次に貴官に下問する。今回の戦いで貴官が得たものそして失ったものをありのままに報告せよ。兵士の数、武器の損耗、そして兵たちの心の状態まで些細なことでもよい」
「また貴官の部隊が活動する地域のより詳細な地図を求む。川の深さ、森の獣道、村々の力関係そして夜間に発生する霧の濃さまで。貴官の『目』で見た全ての情報を私に与えよ」
その手紙を読んだ王皓月は息を呑んだ。
彼は玲蘭がすぐにでも次の華々しい作戦命令を書くとばかり思っていた。しかし彼女が求めたのは徹底的な現場情報の収集だった。
(…この方は分かっておられる。戦とは盤上の駒を動かすゲームではない。生身の人間と不確かな自然を相手にする極めて泥臭い仕事であると…!)
王皓月は玲蘭への畏敬の念をさらに深めた。
玲蘭は王皓月に手紙を託しながら遠い北の空を見つめる。