血の重さと、最初の涙
帝都中が趙子龍の勝利の報に沸き立っている。
後宮ですら侍女たちは興奮気味にその噂話に花を咲かせていた。
しかしその喧騒の中心にいるはずの玲蘭は一人、静思堂の最も暗い書架の影で膝を抱えて座り込んでいた。
彼女の顔は血の気を失い、その手は微かに震えている。
「姫様! お聞きになりましたか!? 我らが軍の、大勝利ですわ!」
侍女の小桃が満面の笑みで玲蘭の元へ駆け寄ってくる。
「これもきっと姫様が毎日、国の平和を祈っていてくださったおかげですね!」
小桃の悪意のない純粋な喜びの言葉が、逆に玲蘭の心を鋭く抉る。
玲蘭はうまく笑顔を作ることができず、「…ええ、そうね。良かったわ」とか細く答えることしかできない。
小桃が去った後、玲蘭の脳裏に前世の記憶が蘇る。
大学の研究室で彼女はモニターに向かい、歴史上の戦いの「損害報告」をただのデータとしてキーボードに打ち込んでいた。
――〇〇の戦い。A軍の損害、死者三千五百。B軍の損害、死者五千二百…。
それは彼女にとって血の匂いのしないただの「数字」だった。
しかし今、彼女がもたらした現実は違う。
(私が、殺した…)
私の引いたたった一本の線が。私の書いたたった数行の言葉が。何百人もの人間を焼き、射抜き、斬り殺したのだ。
彼女の頭の中に薬草院で見た負傷兵たちの苦悶の表情がこびりついて離れない。
彼女が殺した敵兵たちにも故郷で帰りを待つ家族がいたのかもしれない。彼らもまた薬草院の兵士たちと同じように血を流し、苦しみながら死んでいったのだ。
その生々しい想像は玲蘭の胃を痙攣させた。
彼女は口元を押さえ書庫の隅にある水甕の影へと駆け込むと、その日の朝に口にしたわずかな食事を全て吐き戻してしまう。
胃の中が空っぽになっても嘔吐きは止まらない。
やがて彼女の目から大粒の涙が溢れ出す。
それは勝利の嬉し涙ではない。自分の手が取り返しのつかないほど血に汚れてしまったことを自覚した、絶望と罪悪感の涙だった。
(軍師…? 英雄…? 違う…私はただの人殺しだ…)
どれくらいの時間そうしていただろうか。
不意に背後から静かな声がかけられた。
「――その涙は貴方がこれから背負っていく王冠の重さそのものですぞ、姫様」
いつの間にかそこに大宦官・王皓月が立っていた。
彼は布を差し出しながら静かに、しかし厳しく告げる。
「貴方が流した涙で救われる命は一つもない。しかし貴方がこれから流すであろう『知恵』は万の命を救うやもしれぬ」
「貴方が今背負うべきは罪悪感ではございません。救うべき未来への『責任』です」
「お選びなさい姫様。ここでただの人殺しとして泣き続けるか。それとも血に塗れた救世主として立ち上がるか」
王皓月の言葉は玲蘭の心の芯を貫く。
彼女は震える手で布を受け取るとゆっくりと涙を拭った。
そして顔を上げた彼女の瞳にはもう涙はなかった。そこにあるのは全てを背負う覚悟を決めた者の、深く静かな光だった。
(そうよ…泣いている暇はない。私が立ち止まればまた誰かが死ぬ)
(この血の重さから私は決して逃げないと誓おう)
(だから見ていなさい。私がこれからどれだけの命を、この手で救い上げてみせるかを)