月下の奇襲行
深夜。雨は上がったが空には分厚い雲がかかり月明かりすらない。
趙子龍は選抜した最も身軽な五百の兵士と共に、音を立てぬよう馬の蹄に布を巻き陣地を密かに出立した。
彼らの装備は最低限の武具と三日分の水と干し肉のみ。戻る道はない、文字通り決死の作戦だった。兵士たちの顔には覚悟と隠しきれない不安が浮かんでいる。
(もう後戻りはできない。俺は俺たち五百の命を、まだ見ぬ軍師先生のこの一枚の地図に賭けたのだ…!)
子龍は懐に入れた羊皮紙の地図の感触を確かめるように強く握りしめた。
彼らが進むのは正規の街道ではない。地図に記された険しい山中の獣道だった。一歩足を踏み外せば谷底へ転落しかねない危険な道だ。
暗闇と疲労の中、兵士たちの間から囁き声が漏れ始める。
「本当にこの道で合っているのか…」
「これでは夜が明ける前に目的地に着けんぞ」
「罠だったんじゃないのか…」
しかしそんな疑念はすぐに驚きへと変わる。
地図に「この先ぬかるみ多し」と記された場所は、その通り膝まで浸かるような泥沼だった。
「落石の危険あり。岩壁から離れよ」と書かれた崖の下を通り過ぎた直後、背後でガラガラと岩が崩落する音が響く。
「この大樹の根元に枯れぬ泉あり」と記された場所には、その通り疲労した兵士たちの喉を潤す清らかな湧き水があった。
兵士たちは最初は半信半疑だったこの作戦に次第に「確信」を抱き始める。
この地図の作者はまるで神のようにこの土地の全てを知り尽くしている。この方に従えば俺たちは勝てるかもしれない。
彼らの心に絶望的な覚悟から熱狂的な「信頼」が芽生え始めていた。
夜明け前、森を抜けようとしたその時、先頭を進んでいた斥候が鋭く息を呑んだ。
道の先、数十メートル先に焚き火の光が見える。蒼狼国の見張りの斥候部隊だった。
兵士たちは即座に身を伏せる。見つかれば作戦は全て終わりだ。矢を番える者、剣の柄に手をかける者。空気が張り詰める。
子龍はここでも地図を確認した。そこにはこう記されている。
「この付近、敵斥候の交代地点。夜明け前の一刻、最も警戒が手薄になる」
彼は謎の軍師の策の意図を理解した。ここで戦ってはいけない。目的は敵を殲滅することではなく、目的地にたどり着くこと。彼は逸る部下たちを手の合図だけで制止する。
玲蘭の予測通り、しばらくすると敵の斥候部隊は欠伸をしながら後続の部隊と交代しその場を去っていった。
最も危険な瞬間は一滴の血も流すことなく過ぎ去ったのだ。
子龍たちは斥候が去った後、迅速に行軍を再開する。
そして朝日が昇り始める直前、ついに目的地である隘路を見下ろす崖の上の潜伏ポイントに到着した。
崖の下には蒼狼国の本陣へと続く一本の道が静かに横たわっている。
そしてその道の遥か向こうから朝日を浴びて進んでくる長い長い隊列が見えた。穀物や矢を山と積んだ荷駄隊。敵の生命線だった。
子龍は眼下の光景を見つめ、静かに呟く。
「…軍師先生。貴方の描いた盤面の上に、俺たちは寸分の狂いもなくたどり着きました」
彼は腰の剣の柄を力強く握りしめた。
「ここからは、俺たちの出番です!」