静思堂の書庫姫
第1話は1章丸々載せましたが、第2話以降は、
毎日17時に1章(2~5話)ずつ投稿していくので、よろしくお願いします。
後宮の最奥に、静思堂はある。
忘れ去られた古い書庫だ。午後の陽光が、高い窓から差し込んでいる。空気中を舞う無数の埃を、光の筋がキラキラと照らし出していた。
聞こえるのは自分の衣擦れの音と、時折ページをめくる乾いた音だけ。古い紙と、墨の匂いが満ちている。
李玲蘭は、その静寂の中で、ただ一人、書物を読んでいた。
十六歳。黄龍帝国第三皇女。
しかしその肩書きを思い出す者は、もうほとんどいないだろう。
(今日も、静か。……ええ、これでいい。これがいいのよ)
遠くから甲高い女たちの笑い声と、楽の音が微かに聞こえてくる。第一皇女や高位の妃たちが主催する豪奢な茶会の喧騒。
もちろん玲蘭がその茶会に呼ばれることはない。
表向きの理由は、彼女が「病弱」だから。侍医もそう周りには説明している。
本当の理由はもっと単純だ。母が皇帝の寵愛を受けただけの舞姫出身で、有力な後ろ盾がないから。後宮の熾烈な権力闘争の中で、彼女は意図的に「無視」されているのだ。
存在を認められれば、いずれどこかの派閥の駒にされる。無視されている今は、安全なのだ。
玲蘭はこの状況を全く嘆いていない。むしろ好都合だとさえ考えていた。面倒な派閥争いに巻き込まれず、誰にも邪魔されずに読書と思索に没頭できる。
これ以上の贅沢はない。
誰かが自分を陰で「書庫の姫」と揶揄していることも知っているが、彼女にはどこ吹く風だった。
「姫様、お食事です…」
静かな声と共に、侍女の小桃がお盆を持って入ってきた。彼女は玲蘭に仕える、たった一人の侍女だ。
お盆の上には、質素な白粥と一切れの塩漬けの野菜だけが乗っている。
「ありがとう、小桃。そこに置いてちょうだい」
「はい…。あの、聞きましたか? 今日の茶会では、南の属国から献上されたばかりの『火焔果』という、それは見事で甘い果物が振る舞われているそうです…」
小桃が羨ましそうに囁く。火焔果。その名の通り、炎のように赤く蜜のように甘いという幻の果実。一つで庶民のひと月分の給金に相当すると言われている。
玲蘭は、顔を上げずに静かに答えた。
「あれは果物ではないわ、小桃。あれは『権力』という名の食べ物よ」
「え…?」
きょとんとする侍女に、玲蘭は心の中で説明を続ける。
後宮で与えられる食事、衣、住まいの全ては、皇帝からの寵愛と実家の権勢を可視化した「通知表」のようなものだ。
第一皇女が火焔果を食べるのは、彼女の母である皇后の実家が南の交易路を牛耳る大貴族だから。あれは皇后派の権勢を他の妃たちに見せつけるための、政治的なパフォーマンスに過ぎない。
後宮は、決して華やかな乙女の園などではない。
有力貴族たちが己の一族の血を次代の皇帝とするために繰り広げる、血の流れない「代理戦争」の最前線。それが、このきらびやかな世界の本当の姿だ。
不意に、窓の外が騒がしくなった。
見れば、茶会を終えた第一皇女の一行が大勢の侍女や宦官を引き連れて通り過ぎていく。玲蘭は、まるで盤上の駒を眺めるように、その行列を冷静に観察した。
(第一皇女の簪は、流行りの銀細工ではないのね。あえて古風な金の細工。皇后派の保守的な姿勢の現れかしら)
(侍女たちの序列…一番後ろを歩くあの子、最近寵愛が移ったと噂の新人。古参の侍女たちの視線が、針のように冷たいわ)
(護衛の禁軍兵の歩き方が緩んでいる。…平和に、慣れすぎている証拠ね)
彼女は、その完璧に見える行列の内に、いくつもの綻びと未来の波乱の種を見出していた。
今の自分には、関係のないことだ。
◇◆◇
玲蘭は静思堂の奥で埃を被った古い竹簡の束を発見した。
黄龍帝国建国初期、初代皇帝と共に戦ったとされる伝説の武将の戦記だ。その武将は、後宮の女官たちの間では恋物語の主人公として人気が高い。しかし玲蘭が興味を惹かれたのは、その武勇伝の方だった。
竹簡を解き、その記述を読み進める。
すると不意に、強烈な既視感と頭痛が彼女を襲った。
竹簡に書かれた縦書きの漢文が、不意に横書きの明朝体のテキストに見える。
蝋燭の薄明かりが、蛍光灯の白い光に変わる。
古い紙の匂いが、図書館の空調の匂いに変わる。
(――まただわ。この『ノイズ』が、私を時々、別の世界の誰かに変えてしまう)
玲蘭は観念したように目を閉じた。
もう慣れてしまったことだ。私の中には、もう一つの人格の記憶がある。
平和な「日本」という国で、二十代半ばまで生きた「相川千里」という女性の記憶が、生まれた時からずっと存在しているのだ。
相川千里は、大学院で東洋軍事史を専攻していたらしい。古今東西の戦争と戦略を研究することに人生を捧げていた、いわゆる「歴史オタク」…いや「歴女」というやつだった。
この私の異常なまでの冷静さや分析癖は、李玲蘭本来の性格というよりは、この相川千里の思考パターンに強く影響されている。
二つの記憶を持つのは、時々ひどく疲れる。李玲蘭として生きるべきか、相川千里として考えるべきか、十六年経った今も私はその境界で揺れている。
気を取り直して、玲蘭は戦記の続きを読む。
そこには、伝説の武将がわずかな兵で十倍の敵軍を打ち破ったという、有名な英雄譚が記されていた。
『――敵軍、長雨ニヨリ道ハ泥濘、兵士タチノ食料ハ尽キカケテイタ。ソコニ、我ガ軍ハ山ノ上ヨリ奇襲ヲカケ、コレヲ粉砕セリ』
なるほど、見事な奇襲だ。
しかしその記述を読んだ瞬間、玲蘭の中の「相川千里」が、猛烈な勢いで異議を唱え始めた。
(いやいやいや、おかしいでしょう!?)
思わず声に出さなかった自分を褒めてあげたい。
おかしい。あまりにもおかしい。
この戦の勝因は、奇襲の巧みさではない。敵が、補給計画も立てずに悪天候の中を無謀な行軍をしたという、単なる自滅ではないか。
そもそも、なぜ敵軍は兵糧が尽きたのだ? 輸送部隊はどうした? 兵站線の確保は!?
玲蘭は、はっとした。
彼女は、まるで何かに取り憑かれたかのように、書庫にある他の戦記や歴史書を、次から次へと引っ張り出して読み漁り始めた。
そして、ある衝撃的な事実に気づく。
この世界の軍事理論には、「兵站」という概念が、致命的なまでに欠落しているのだ。
兵站。すなわち、前線に兵士や食料、武器を絶え間なく送り届ける補給活動。戦争の勝敗を、戦闘そのもの以上に左右する、最も重要な要素。
前世の相川千里にとっては、軍事のイロハ、常識中の常識。
しかし、この世界の歴史書には、その言葉すらほとんど出てこない。
(なぜ…?)。玲蘭は、その理由を考察する。
(この国では、戦は『武将の勇猛さ』と『兵士の数』で決まると、固く信じられている。補給のような地味な仕事は、武人ではない文官の下働きと見なされて、軽んじられているのだわ)
(なんて愚かで、なんて…危険なことか)
玲蘭は、自分の持つ「知識」が、この世界においてどれほど強力な武器になるかを、改めて自覚した。
ナポレオンの兵站術。孫子の兵法。近代戦の補給理論。
彼女の頭の中にはこの世界の誰も知らない、戦争に勝つための「答え」がぎっしりと詰まっている。
(この知識があれば…もしかしたら私のような無力な皇女でも、国の一つや二つ動かせるかもしれない)
これまで、後宮の片隅で静かに暮らすことを良しとしてきた玲蘭。
しかし、この「世界の欠陥」の発見は、彼女の心にこれまでなかった感情を芽生えさせた。
それは純粋な知的好奇心であり、同時にこのあまりにも脆い世界への一種の「責任感」だった。
◇◆◇
その日の午後、玲蘭が静思堂で読書をしていると、侍女の小桃が顔をくしゃくしゃにして泣きながら駆け込んできた。
彼女の手には中身が空っぽになった小さな布製の小物入れが握られている。
「姫様…! 無くなってしまったのです…! 母のたった一つの形見だった銀の簪が…!」
しゃくりあげながら語る小桃の話をまとめると、こうだ。
少し前にいつも彼女をいびってくる先輩侍女の李花に「だらしない」と因縁をつけられ、私室の荷物をひっくり返された。その直後に簪がなくなっていることに気づいたという。
後宮では侍女同士のいじめや盗難は日常茶飯事だ。
犯人が先輩侍女の李花だと分かっていても何の証拠もない。下級の侍女である小桃が彼女を告発すれば、逆に「上官への侮辱」として罰せられるのは小桃の方になってしまう。
小桃は泣き寝入りするしかないと絶望していた。
「…落ち着きなさい、小桃」
玲蘭は慌てず騒がず、まず泣いている小桃に温かいお茶を淹れてやった。そしてまるで尋問官のように静かに、しかし的確な質問を始める。
「李花は、貴女の部屋のどこを、どのように探したの?」
「その簪はどのくらいの大きさ? どのような意匠?」
「そもそも李花という侍女は、どういう性格の人間なの?」
玲蘭は、小桃の情緒的な訴えの中から客観的な「情報」だけを冷静に抽出し、頭の中で整理していく。
彼女の頭脳は、いつの間にか「相川千里」モードに切り替わっていた。
(犯人、李花。彼女のプロファイリングを開始する)
性格は、プライドが高く陰湿。直接的な暴力ではなく、精神的に相手を追い詰めることを好む。
動機は、小桃をいじめること自体が目的。簪は換金するためではなく、小桃が苦しむ姿を見るための「道具」。
そして、自分の犯行がバレることを極端に恐れる小心者でもある。
(なるほど。分析完了ね)
玲蘭は集めた情報を元に、犯人である李花の行動を論理的に再構築していく。
(彼女の目的は、小桃を苦しめること。ならば簪をすぐに壊したり捨てたりはしないはず。小桃が必死に探す姿を、どこかから見て楽しみたいはずだわ)
(しかし彼女は小心者。自分の部屋に簪を隠せば、万が一捜索された時にリスクが高い。それも選ばないでしょう)
(ならば隠し場所は、自分の部屋以外で安全で、かついつでも小桃の様子を窺える場所…)
玲蘭は静思堂の窓から外を見渡し、後宮の地図を頭の中に描く。
李花の部屋と小桃の部屋、そしてこの静思堂の位置関係。侍女たちがよく使う水汲み場のルート。ここから考えると、隠し場所として最も可能性が高いのは…。
「行きましょう、小桃」
玲蘭はすっと立ち上がると、まだめそめそしている小桃の手を引いた。
「貴女の宝物は、きっと見つかるわ」
彼女が向かったのは、侍女たちが共同で使う中庭の洗い場だった。その隅に雨水を溜めるための大きな装飾用の水甕が置かれている。
「李花は、簪をここに隠したのよ。自分の部屋でもなくかといって遠くでもない。ここなら彼女は水汲みに来るふりをして、貴女が慌てる様子をいつでも見ることができる」
「そして何より…『灯台下暗し』。誰もが毎日使うこんなに目立つ場所だからこそ、かえって誰もこんなところに大切なものが隠されているなんて思わない。心理的な死角というわけね」
小桃が、おそるおそる甕の底に手を入れる。
冷たい水の中からひんやりとした金属の感触がした。
引き上げると、それは紛れもなく彼女の母の形見の、月光を浴びて鈍く輝く銀の簪だった。
「姫様…! ありがとうございます…! まるで、全てをお見通しなのですね…!」
小桃は簪を胸に抱きしめ、再び泣き出した。
しかしそれは絶望の涙ではない。安堵と、そして目の前の主君への感謝と尊敬に満ちた温かい涙だった。
玲蘭はそんな小桃の頭を優しく撫でる。
胸の中に、ほんのりとした温かいものが広がっていくのを感じていた。
(前世の知識は、戦争のためだけにあるのではない。こうして目の前で泣いているたった一人の女の子を救うためにも、使えるのだわ)
◇◆◇
簪事件から数日後。静思堂にはまたいつもの静けさが戻ってきていた。
しかしそこには一つだけ小さく確かな変化があった。
侍女の小桃が以前にも増して甲斐甲斐しく玲蘭の世話を焼いているのだ。彼女は玲蘭をただの主君としてではない。心から尊敬し、崇拝する対象として見ているようだった。
彼女が持ってくるお茶には時々、厨房の友人からこっそり分けてもらったという小さな菓子が添えられるようになった。
玲蘭はその小さな変化を微笑ましく思う。
後宮という孤独な場所で初めて得た、心からの「信頼」という名の絆。
彼女はこのささやかな平穏が続くことを静かに願っていた。
「姫様、姫様。お聞きになりましたか?」
その日も、小桃は玲蘭が退屈しないようにと都で仕入れてきた様々な噂話を、楽しそうに話して聞かせていた。
「東の市では新しい染め物の布が流行っているそうです。それから有名な役者の一座が近々都で公演を行うとか…」
楽しげな世間話。
しかしその中に玲蘭だけが聞き逃さない、いくつかの不穏な「ノイズ」が混じり始めていた。
「そういえば最近お米の値段が少し上がったと皆が話していました。今年はあまり雨が降らなかったからでしょうか…?」
「それから北の国境を守っている兵士さんたちへのお給金が、もう三月も遅れているのだとか。ご家族の方々がとても心配していました」
「あとこれは本当にただの噂なのですが…北の『蒼狼国』という国が最近全ての部族を集めて大規模な狩猟大会を開いたそうですよ。何万騎もの馬が集まったとか…」
小桃はそれをただの世間話として語る。
しかし玲蘭は、背筋に冷たいものが走るのを感じていた。
彼女の中の「相川千里」が警鐘を鳴らす。それらの情報は、一つ一つは些細なことかもしれない。だが、組み合わせることで恐るべき未来図を描き出すのだ。
(米価の高騰…天候不順だけが原因ではないわ。地方の貴族や豪商が不作を見越して『米の買い占め』を行っている証拠。これは中央政府の統制が地方に行き届いていない危険な兆候)
(兵士への給金未払い…国家財政が逼迫していることの現れ。そして何より国を守るべき兵士たちの忠誠心を著しく低下させる最も愚かな政策。士気の低い軍隊は烏合の衆と同じよ)
(大規模な狩猟大会…蒼狼国のような騎馬民族にとって、大規模な狩猟は軍事演習そのもの。複数の部族の連携を確認し、戦いの準備を整えていると考えるのが自然だわ)
三つの点が、線として繋がる。
そしてその線が描き出したのは、一つの最悪な未来だった。
(内政は腐敗し財政は破綻寸前。軍の士気は地に落ちている)
(その一方で隣国はかつてない規模で軍事力を結集し、侵略の機会を虎視眈々と窺っている)
(これは…前世の歴史で何度も見た、王朝が滅びる時の典型的なパターンじゃないの…!)
玲蘭は自分が愛したこの静かで平穏な日常が、燃え盛る火薬庫の上にある薄氷のようなものであったことを悟った。
「あら、姫様? 難しいお顔をされて。わたくしの話、退屈でしたか?」
そんな玲蘭の深刻な表情には気づかず、小桃が無邪気に首を傾げる。
玲蘭は、その無垢な笑顔を守りたいと心の底から思った。
(この子の、この笑顔を…この何でもない一日を、私は守れるのだろうか)
玲蘭は静かに立ち上がると、書庫の窓から北の空を睨みつけた。
その瞳にはもはや傍観者の安穏はない。これから来るべき動乱をただ一人見据える者の、強い覚悟とかすかな恐怖が宿っていた。
(風が、来る…)
(もはやただの風ではない。全てをなぎ倒し焼き尽くす嵐だ)
(そしてこの国の誰もその嵐の大きさに、まだ気づいていない)