青いリンゴ
休日の交差点、朝の通勤電車、終業間際のテーマパーク、お昼時のごはん屋さん。どこに行っても、どこを見ても人があふれている世界。人と人とが簡単につながれる時代だと、そう誰かが言った。その的外れさに、イライラする。
東京の夏は嘘みたいな青い空と熱い日ばかりで、気が狂いそうになる。それでもおかしくないふりをしながら、同じような毎日をずっといつまでも繰り返す。17歳、高校二年の夏はあまりにも長くて、こんな風に息苦しい日々がずっと続くのかと思うと、心底ぞっとした。
後から思い返せば、なんだってきれいな思い出になる。そうやって、過去をちゃんと過去にした大人が嫌いだ。俺にとっては今、立っているこの場所が今なんだ。それを、よくも分かったような口ぶりで。つながりの時代、発信の時代、だれもが近くに寄り添える時代。もし本当にそうなら、どうして誰もこの息苦しさを理解してくれないんだろう。
学校からの帰り道、人ごみの中を進んで電車に乗り込む。奇跡的に一つ席が空いていたので、流れ落ちるように俺は席に座った。その瞬間、どっと一日の疲労が体を満たしていくのが理解できた。鞄を持つ腕がだらんと垂れ下がる。瞼が鉛のように重い。
少しだけ、ほんの少しだけ眠ろう。例え寝過ごしてしまったとしても、どうせ帰ったってやることもない。俺は睡魔に身を委ねて、揺れる電車の中でストンと眠りに落ちた。自分が思っていたよりも案外疲れていたのか、想像するよりもはるかに深く、安らかな眠り。
「随分と、お疲れみたいでしたね。」
目が覚めると、そこは知らない駅で、辺りはもうすっかり日が落ちてた。加えて目の前には、スーツを着て黒い鞄を携えた中年の男。駅員には見えないが、親切心で終着だからと起こしてくれたのだろうか。そんなことを寝ぼけた頭で思考しつつ、俺は目をこすって口を開く。
「あ、ああ。すいません。なんか寝ちゃってたみたいで…。」
軽く謝罪して、すっと立ち上がってから、周囲がやけに静まり返っていることに気づく。浅い呼吸の後、その静けさの違和感が輪郭を伴って理解できた。どこか分からない駅のホーム。それがどれだけ辺鄙な終着とはいえ、まったく誰もいないのは妙だ。日が落ちたといっても、時刻は時計を見る限り深夜というほどでもない。何かが、明確におかしい。ただ、不思議と恐怖はなかった。なんだか心地のいい、まるで世界には目の前の男と自分しかいないような。
「いいえ。静かで、いい夜です。逆に起こしてしまったのが申し訳ない。ところで、見たところ、この駅に用事があるという雰囲気ではありませんね。次の電車が来るまで時間があります。どうですか、少し中年の与太話でも。」
(なんだこのおっさん…普通に胡散臭いしキモイな…。まあでも、暇つぶしぐらいにはなるか。)
そこはかとない胡散臭さを感じつつも、次の電車を待つ時間が暇なのは事実なので、大人は年下に語りたがるような生き物なのだと自分を納得させて、俺は目の前の男の話に付き合うことにした。電車を降りて、ホームのベンチに二人そろって腰掛ける。
「ええと、失礼。お名前をうかがっても?」
「トウジ。ほら、一番太陽が早く帰る日ってあるじゃないでその漢字で、冬至です。」
「ふふ、トウジさんは素敵な表現を選ばれる方ですね。では、一つ質問を。あなたは、現状に満足していますか?」
思っていたよりも、ストレートな胡散臭さの剛速球が飛んできた。これから何か売りつけられでもするのだろうか。そんな警戒を胸にひっそり携えて、俺は自身の心に投げられた問いかけの答えを探る。満足は、たぶんしていない。
理由のぼやけた窮屈さと、そんな形のはっきりしないもやもやに囚われている感情。言葉に言い表せないぐちゃぐちゃの心の繊維が、固く絡まってほどけてくれないような。言葉にできないものを何とか伝えようと、俺は頭をこねくり回して言葉を探した。けれど、どれも適切できないような気がして。結局、何も口にはできなかった。
「満足はしていないけれど、何が足りていないのかわからない。そんなところでしょうか。」
「…そう、ですね。その通りだと思います。」
「不思議ですよね。社会が発達して、人間は技術力を向上させ、医療は進歩し、死さえも遠ざけるような力を得た。それなのに、人の内面はどんどん狭量になっていく。」
男は、はるか遠くを見つめるようにそう零した。それは諦念と、それから慈しみと、最後に祈りを混ぜたような、そんな微かな呟き。まるで、全部が他人事みたいだな。と、そう思わずにはいられなかった。
男は鞄を開き、中から一つの果実を取り出す。絵画のように青くて、艶のあるリンゴ。そのリンゴを、男は手のひらに乗せて跪きながら俺の目の前に差し出す。視線の先には青い果実。果実の後ろに隠れて、男の表情が見えなくなる。
「あなたには、これを受け取る権利がある。私は、あなた方が出す答えを、いつまでも待っているのだから。」
気が付けば、俺はその果実を手に取っていた。理由は分からない。何かが、俺をそうさせたんだと思う。俺がリンゴを受け取ると、男はにっこりと笑って再び立ち上がった。そうしてベンチに再び腰掛けることはなく、男は改札のほうへと向かっていく。
「食べるなら、どうかお早めに。消費期限は長いですが、賞味期限は補償いたしかねます。」
男は振り返らないまま、そう言い残して改札を抜けていった。するとそれと同時に、一本の電車がホームに到着する。俺は何の疑問も持たないまま、この辺鄙な駅を後にした。
家に近くなった頃には流石にもうすっかり夜も更けていて、都心から外れたこともあってか、先ほどとは違った自然な静寂があたりを支配していた。俺はあの男から貰った青りんごを持って、いろいろなことを考えながら一歩一歩家へと進んでいく。
(貰ったはいいんだけど…知らない人から貰ったもの食べるのって、やっぱ怖いよなぁ。)
それなりに不思議な体験をしたという認識はある。けれど、やっぱりいつもの帰路についたらそれはいつもの日常で。ただ一つ違うのは、手元にある一つの果実だけ。暗く、濃い紺色をした世界の中で、それだけが光り輝いているように見えた。
窮屈な日常から飛び出していくための、乗車切符。食べるべきか、食べないべきか。そう考えていたとき、通りがかった路地裏に、二つの人影が見えた。一つは大きく、おそらく男であろうシルエット。そうしてもう一方は、弱々しくへたり込んで、今にも伏せてしまいそうな傷だらけの女の子。
明らかな異常事態。俺は思わず足を止めて、その場に立ち竦んでしまった。急に、やたらと風が強く感じ始める。心拍が上がり、鼓動がうるさく響く。一拍置いて、鼻腔に鉄の匂いが強引に入り込んだ。それが血の匂いだと気づくのに、時間はかからなかった。
瞬間、路地裏の奥にいた男と目が合った。背筋が凍り、脳みそに危険信号のアラートが全力で鳴り始める。状況を理解するよりも、生き物としての本能が、俺に逃亡の選択肢を叩きつける。それに従って、気がつけば俺は走り出していた。
「.....!待て、待て待て待て待て待て!!!!」
背後から男の怒号が聞こえる。無視。背後から何かが向かってくる音がする。無視。すぐ背後から鋭い何かが狙いを定めている気配がする。無視。振り返ることなく、ただ恐怖に絡め取られて走り続ける。鞄なんて投げ捨てて、でも咄嗟に持っていたリンゴは捨てることなく握りながら。
もし、振り返れば。もし、一歩でも足を止めれば。もし、あの女の子に少しでも気を取られていれば。いや、もしかしなくとも。確実に殺される。そんな確信にも似た天啓を、感覚で理解させられた。それ程までに、圧倒的な恐怖。
そんな恐怖を裏付けるように、勢いよく俺の脇腹を鋭い何かが掠った。ほんの少し掠っただけなのに、衝撃と痛みで俺は足が一瞬硬直しもつれ、激しく地面に激突する。逃げられない。そう、俺は悟った。何とか痛みを堪えながら体勢を立て直そうとするも、後方を座り込みながら確認するのが精一杯。
視界には、身体中に茨が巻き付き、触手のようにその茨を伸ばしている男がゆらりとこちらに向かっている。それを見て、自分の脇腹を掠ったものの正体に気付くものの、それが今更なんの意味を持つというのか。
「お前、それをどこで手に入れた?」
男は激昂したまま、俺の腹に全力で足をめり込ませる。その蹴りは鳩尾にドンピシャで突き刺さり、俺は嗚咽を漏らして地面に転がり回るだけしかできない。いつでも殺せる。そんなメッセージを、明確に感じさせる一撃だった。
「それ食ったせいでな、こんな体になったんだよ。なぁ、これじゃあもう誰かに抱きしめられることもできねーよ。あぁあ、クソみてぇな呪いだなぁ!」
ジクジクと、脇腹から血が流れていくのが分かる。蹴られて頭がぼんやりと揺らぎ、気絶しそうになる度に痛みが俺を正気に戻してくる。なんでこんなことになった。どうしてこんなことに。そんな言葉が、何度も頭の中を行ったり来たり。
「はーあ。まあ、理由なんかどうでもいいか。どうせ、お前もあのおっさんに貰ったんだろうよ。」
嵐のような足蹴りが一旦止み、男はフーっと一呼吸を置いて天を仰ぎ見る。そうして息を整えたのか、全身に巻きついている茨を腕により集中させ、大きな槍のような形を形成。その切っ先を俺の腹に向けてなぎ払いの構えを取った。
「恨むなら、あのおっさんを恨めよ。仇は俺が、とってやるからさぁ!」
全力で振りかぶって、大きな茨の槍がこちらへ走る。俺は目を瞑って、その瞬間を待った。けれど、ついぞその瞬間が来ることは無く、俺を突き飛ばす衝撃だけが全身を襲った。
その衝撃で思わず目を開くと、そこには先程までへたり込んでいた女の子が、俺の代わりに茨の斬撃を受けていた。どうやら俺の事を突き飛ばして、命を張って助けてくれたらしい。背中から、ドバっと雪崩みたいに血を吹き出して、その表情は苦悶と、それから安堵。
あぁ、良かった。そんな風な声が聞こえてきそうなほど、彼女の表情は安らかで。救われたというより、なんだか逆に彼女の方が助けられたような。しかし、そんな表情も、刹那の後に地面へと向けられて見えなくなった。
「あ?なんだよこいつ。まだ動けたのかよ。女の癖にタフだなぁ随分。」
トドメと言わんばかりに、男は茨の槍を伏した女の子の背中に突き立て、グリグリと傷を広げ続けた。その度に血が溢れて、辺りにむせ返るような匂いが充満する。けれど不思議なことに、微かに女の子が喋っているのが分かった。
「......げて.....。はや.....く.....にげ.....て.....。」
「まだ生きてんの?!きっも!!!お前人間じゃないってマジで。タフとかじゃなくてきもいよ。」
心臓が熱い。脳みそが鼓動しているんじゃないかって思うぐらい、拍動がずっと大きくなる。恐怖よりも、もっと大きな感情が自分を支配していくのが、手に取るようにわかった。
呪いだと、男は言った。あの茨は、呪いなのだと。だとすれば、なんて簡単なことなのだろう。あんなに瀕死になっても尚、自分を顧みずに逃げろと、そう伝えてくれる女の子。まだ生きている。まだ、助かるのかも知れない。
なら、呪われたっていい。俺はぐちゃぐちゃに握り潰してしまった青リンゴを、舐めとるように口に含んで飲み込んだ。固形物が喉を下っていく。全身の血液が、それを祝福しているような気がした。体の端々から、肉体は作り変わる。
身体中を黒い靄が包み、夜の中に輪郭が溶けていくような感覚。そうして手のひらには、いつの間にか鈍く光るナイフ。真っ白な仮面越しに、相対する男の瞳に自分の姿が映っているのが見えた。
それは、まるで幽霊のように静かで。
劇場に立つ道化のようにおどろおどろしく。
猟奇的な殺人鬼のように、残忍な形をしていた。