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平安貴族物語 ~時姫から藤原彰子まで~  作者: かあなび1
第三部 彰子(道長の娘)
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後一条帝の世(その2)

 寛仁元年(1017年)7月のこと、鴨川で洪水が起こった。あちこちで川があふれ、邸宅が水につかったり流されたりし、亡くなってしまわれた方も多いと聞く。こうゆう場合、平安の時代だと、天が災いを起こして、世の不行き届きを正そうとしているといわれてしまう。天災は、人間とは関係なく、自然の摂理で起こるものだ。それなのに、後一条天皇の政まつりごとに対しての天の怒りだとか、摂政である弟頼通に対しての怒りだとか。やはり、一条院の第一の皇子敦康親王を天皇に押すべきなのだ、という声も起こってくる。

 そうこう考えているうちに、8月、東宮であらせられた三条天皇の皇子敦明親王が東宮を辞退された。補佐する方もおられず、外祖父も后方の義父も力なく、こうなるのは時間の問題であった。

 この度こそは、と父道長に敦康親王を東宮にと進言したのだが、聞き入れてはもらえなかった。東宮は、わたくしの第二子敦良親王(後の御朱雀天皇)となる。つまり、次の世も父の思い通りになるということだ。

 8月末から行われた秋の除目(国司や官吏の任命。秋は、官吏が主。)では、わざわざ父が宇治に移動して会議に関わらないでいたのに、頼通は使いを出して父の意見を聞いたことが殿上人のうわさとなった。頼通はまだまだ頼りない。都の貴族たちは、頼道のもとでなく、いまだに父のところに様々な品をもって頼みごとに行く。わたくしのところに来る者もいる。心休まる間がない。

 寛仁2年(1018年12月)敦康親王は、20歳にして失意のうちにお亡くなりになった。たいそう立派な心映えと何事につけても思慮深くさえざえとした皇子であらせられたことを思い、涙が枯れるほど打ちひしがれた。あの世で、一条院になんと申し上げればよいのか。

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