三条帝の世
三条帝は、祖父兼家にはかわいがられていたので、東宮になられこの度天皇になられたのだが、いろいろ複雑な背景があり、父道長との仲は良くなかった。そのため、天皇としては苦難の道を歩かれることになる。
まず、父君の冷泉院は、即位された寛弘8年10月16日(1011年)には、ご存命であったが、気の病があり後ろ盾にはなりえない状況であった。母君は祖父兼家の娘超子様であったが、帝が7歳の時に亡くなられている。その時父道長は17歳。結婚もしておらず、身分も高くなく、優秀な兄たちの陰にいたし、超子様との交流もほとんどなかった。
次に、女御様。義理の父は、当然大きな後ろ盾となるのだが、こちらもうまくいっていない。祖父兼家の娘藤原綏子様、藤原済時の娘で敦明親王の母君娍子様、伯父道隆の娘である藤原原子様、父道長の娘でわたくしの次の妹妍子。藤原綏子様と藤原原子様は、すでに亡くなっていらっしゃる。三条帝は、父道長の権勢を嫌い、娍子様を皇后にし、妹妍子は中宮となった。この件で、父は三条帝のことを恨んでいるようだ。
参内しなかったり、譲位を勧めたり、散々な態度である。
5年ののち、目を患われた三条帝は、とうとう敦明親王を東宮に建てることを条件に譲位をされた。その時に詠まれた和歌が、
心にもあらでうき世にながらへば恋しかるべき夜半の月かな
(死んでしまいたいくらいのこの憂き世であるが、もしこの後心ならずも生きながらえることがあったなら、この患っている目に映っている宮中から眺めている夜ふけの美しい月が、さぞ懐かしく思い出されてくることだろう。ああ、つらい。)
太政天皇となられるも、翌寛仁元年(1017年)4月に出家され、程なく42歳で崩御された。いかばかりの思いでいらっしゃったことであろうか。お気の毒なことであらせられた。わたくしはどうすれば、天皇となられる我が子をお守りできるであろうか。
この世界に転生してから、いくらか学んでいるとはいえ、もとは小学生。国母としての力の使い方が、十分わかっているとは言い難い。




