摂政道隆・道兼の死去
定子様の父、長兄道隆は、帝(一条帝)の伯父に過ぎなかった身から、帝の義父となり、摂政として権力を持っている。いまだお子はできず、新しい入内もない。期待して待っているのだが、兄は定子様のお子をひたすらに待ち、ほかの姫の入内を許さないので、何とも言えない状態である。
帝と定子様の仲は、たいそうよい。やはり、才気活発で見目麗しく、会話も機知に富み、定子様ご自身には何の憂いもない。早く皇子がお生まれになればよいのだが。
そうこうするうちに、大変なことが起こった。
正暦2年(991年)2月12日、御願寺である円融寺で円融院が33歳の生涯を閉じられた。仲の良い夫とは言い難かったが、尊敬もし頼りにも思っていた帝のお父上である。悲しみに暮れながら御心の安らかなることを祈る。そして、帝のただ一人の親となったわが身を思い、なんとしても帝をお守りせねばと思う。
9月16日、出家し尼となった。帝より東三条院という院号を賜った。円融院に代わり、女院として帝をお支えする。女院は、わたくしが初代である。何事も有職故実に従う今の世に、このようなことがかなったのは、妹のわたくしを権力を支える一翼とみなす長兄道隆の思惑あってのことである。道隆はいったん関白を辞し、次兄道兼が内大臣となる。
しかし、長兄道隆の権勢は長くは続かなかった。5年後の長徳元年(995年)病に伏し、4月3日、嫡子の内大臣伊周に関白を譲りたいと帝に奏上したが、帝は許されなかった。道隆の政を快く思っていらっしゃらなかったから。とりあえず、病中の内覧のみ許された。そして、4月10日、43歳でお亡くなりになる。
ところが、4月27日に摂政となった次兄道兼は、そのあとすぐに病にかかり、5月8日に35歳で、後を追うように亡くなってしまう。
兄君たちには気の毒なことであったが、これは弟道長の出番である。ところが、帝は定子様の兄君、伊周を関白にする考えでいらっしゃる。伊周では、帝の助けにはならない。言動の端々に、帝をないがしろにし、自分の思い道理の政治を行おうとする思いが見受けられる。なんとしても、止めなくてはならない。
わたくしは、帝のもとに急いだ。
「いかでかくは思し召し仰せらるるぞ、大臣越えられたることをだに、いといとほしく侍りしに……」
(なぜ、そんなことをおっしゃって道長の摂政就任を退けられるのです。この母の同母の兄弟である道隆の後を道兼に継がせたのならば、次は当然道長に継がせるべきでしょう。若輩の伊周に大臣の位を越えられたことでさえ、この母が、どれほど気の毒なことと思っていたことか。……兄弟の順を守り正しい政治を行われることが、天皇であるあなたのなさるべきことです。)かなり語気も強く申し上げたのに、同意してくださらない。
もう一度呼び出してもらうように申し付けたのに、顔を見せてくださらない。仕方なく、ご寝所に入り込み、直接訴える。涙ながらに、心も言葉も尽くして申し上げる。
やっとのことで、帝の了承を得て、控えていた道長に「あはや、宣旨下りぬ」(ああ、やっと関白とするご命令が下りました。)と告げた。負けてはならないところでの勝負は、私の得意とするところだ。




