詮子、中宮になり損ねる
これと前後して、尊子内親王が承香殿の女御となられた。殿方は、妻の懐妊に際して新しい女を求められると聞くが、(父も、そうであったと母から聞いたが)、それは帝も同じなのであろうか。しかし、わたくしは、なんと言っても一の男皇子をお産み申し上げた身。何の心配もいらぬはず。心がざわざわするのを、何とか抑えて平静を保つ。
父の家で、弟の道長とすごろく遊びをしたり、(今では、さすがにすごろくの勝ち負けでケンカにはならない)、琴をつま弾いたりしながら、日に日に育っていく我が子との暮らしは、なんと穏やかで楽しいものであることか。前世では、結婚もしていなかったし、ましてや子を産んでもいなかったから、とても幸せだ。
天元五年(982年)一月二十八日、冷泉上皇の女御であった姉の超子がお亡くなりになった。人の運命など、いつどうなるかわからない。そろそろかわいい盛りである一の宮様を連れて内裏参内しようと思っていたのだが、見合わせる。そうこうしているうちに、信じることのできない噂を耳にした。関白頼忠殿の娘遵子様に中宮の宣旨が下るというのだ。
先の中宮兼通殿の娘媓子様がお亡くなりになって、中宮が空位になっていた。当然、一の宮様をお産み申し上げたわたくしが近いうちに中宮になるものと思っていたのに。
十月五日、立后の日。わたくしは、父の東三条帝で唇をかみしめていた。帝からは、一の宮を連れて参内するようにと矢の催促だ。誰が参内などするものか。父も、参内を促されているが、全く動かない。ストライキ状態である。この戦い、負けてなるものか。女御に対するこの仕打ち、決して許すまじ。なんと、媓子様の弟の公任が「こちらの女御(詮子)はいつ立后なさるのかな」と言い放ったという。この恨み、晴らさずにおくものか。




