兼家様の兄君(兼通殿)亡くなる
摂政右大臣の伊尹殿がなくなったのち、兼通殿が摂政をなさり、兼家様は、政では思わしくないようだが、例のことは盛んなようだ。近江の女にせっせと文を送っているようである。
二月、ついに三日の餅を召し上がったそうだ。
兼家様のお子は、私の知る限りで十人。妻は、七人。なかなか、心安らかに過ごすことは難しいことだ。
ところが、その兼通殿まで病にかかられ、明日をも知れぬお命とか、いやもうお亡くなりになられたのだといううわさが飛び込んできた。早くお見舞いに行かれるように申し上げたのだが、全く聞き入れられない。
死の穢れに触れては、帝にお会いできぬと、兄上のお見舞いにもお悔やみにも行かず、内裏へと向かわれた。そんなことをしては、どんな罰が当たるかわからない。
じつはまだ、兼通殿はご存命で、その邸宅を素通りして内裏に向かわれたものだから、兼道殿は死の床から這い起き、ふらふらのまま、内裏に上がられたそうだ。
内裏でそのお姿を見た兼家様は、真っ青になってどこかへ逃げてしまわれたという。そして、兼通殿は、
「最後の除目行いに参り給うるなり。」(私の命の、さいごの除目をしにまいりました。)とおっしゃり、藤原頼忠(ご兄弟の父師輔殿の兄の子つまりいとこ)を摂政に任じ、兼家様を降格させた。
もちろん、独断で、帝の許可を得ていないが、あまりの迫力に帝も何もおっしゃらなかっと、伝え聞いた。やはり、罰があたったようだ。




