彼女は断れない。それなら、君と■■■したいという俺の願いも断らないよな?
ポケットからスマートフォンを取り出した俺は、一枚の写真をディスプレイに表示させた。そして、そのままスマートフォンを恋人の眼前へ突き出しながら、こう言い放った。
「春奈。また……浮気したのか?」
俺が放った言葉に目を見開いた恋人の春奈は一瞬、沈黙するも直ぐに首を横へ振った。
「ち、違う。浮気じゃないよ」
春奈ならばそう答えるだろうと予想していた俺は、小さく溜息を吐いた。
「……だったら、また“お願い”を断れなかったのか?」
春奈は無言で俯き、小さく首を縦に振った。
肯定――もはや憤慨する事もなければ、悲観に暮れる事もない。俺の心には諦観だけが居座っていた。
◇ ◇ ◇
春奈は優しい少女だ。
困っている人がいれば誰にでも手を差し伸べ、分け隔てなく接する。まるで天使のような女の子……そう思っていた。彼女が知らない男とキスする瞬間を見るまでは。
高校に入学して直ぐの頃、俺は学校の中で財布を落とした。
最悪、中の金は抜き取られていても構わないが、入学祝いとして買ってもらった革財布だけは諦められなかった俺は、校内をくまなく捜索していた。
そんな時、声を掛けてくれたのが春奈だった。
見ず知らずの俺の為、一緒になって財布を探してくれた心優しい少女。俺はそんな彼女の事が好きになった。
結果から言えば、財布は見つかった。ただ、予想通りに金を抜き取られていたし、財布自体も焼却炉へ投げ込まれていた為、傷付き煤だらけになっていた。
それでも落ち込まずに済んだのは、春奈が最後まで捜索に付き合い、寄り添ってくれたからだ。彼女には感謝しかない。
暫くして俺と春奈は恋人として付き合う事になった。
俺から春奈へ告白し、彼女が受け入れてくれた事で始まった関係だったが、今になって思う。彼女は俺の想いを受け入れてくれたのではなく、単に断れなかっただけではないかと。
ある日の放課後、校舎裏の方へ歩いて行く春奈を見かけた俺は、気になって彼女を追いかけた。
そこで見た光景。それは春奈が知らない男とキスをしている瞬間だった。
頭が真っ白になった俺は暫く呆けていたが、直ぐに拳を握り締めて男へと殴り掛かって行った。俺の彼女に何をしやがる――そう激昂しながら。
相手は上級生だったようだが関係ない。俺は男と取っ組み合いを初め、二人してボロボロになった。春奈はひたすらにオロオロしていた。
少し冷静になった俺が春奈に状況を尋ねると、彼女は言った。
『ごめんなさい。どうしてもって頼まれたから、断れなくて……』
どうやらその男も春奈の事を好いていたらしく先日、彼女へ告白したらしい。しかし、先に俺と付き合っていた為、春奈は交際を断った……が、男から懇願されたそうだ。
『俺の方が先に好きだったのにな……。解った。君を諦める代わりにキスさせてくれないか?』
一度だけならと春奈はその懇願を受け入れ、男と接吻を交わした。
男とのキスは今回で二度目らしい。俺が気が付いていなければ三度、四度と続いて、それ以上の関係へ発展していた可能性もある。
未だ付き合い初めて日が浅い為、俺と春奈はキスすらしていない。
彼女のファーストキスを見知らぬ男に奪われて絶望していた俺だが、ふと一つの疑問が頭を過った。
果たしてそれが春奈にとって初めてのキスであったのか――と。
春奈は俺以外の人間と付き合った事はないらしい。嘘を吐かない彼女だから、おそらくそれ自体に間違いはないだろうが、恋人関係になるというステップを飛ばし、いきなりキスしたりする事がこれまでにもあったのかもしれない。
嫌な予感というものは当たるもので、彼女はその上級生以外とも関係を持っていた。しかもキスどころか、それ以上の関係を持った事もあるらしい。
一番驚いたのは、学校の教頭と肉体関係を持っていた事だ。
愛妻を早くに亡くした教頭から「寂しいから慰めてほしい」と懇願され、断れなかったそうだ。
これからは俺だけを見てほしい。恋人以外の人間とキスしたり、身体を許したりしないでほしい。俺がそうお願いすると春奈は神妙な顔で頷いた。
過去がどうであれ、春奈を信じたい。そう思っていた俺だったが先日、スマートフォンへ送られてきた一枚の写真を見て、彼女を信じ続ける自信を失った。
写真には複数の男達とホテルへ入っていく春奈の姿が映し出されていたのだ。
◇ ◇ ◇
「そうか、解った……」
俺がそう呟くと、顔を上げた春奈は僅かに安堵の表情を浮かべた。そして、眉を寄せ「ごめんなさい」と小さく謝罪の言葉を述べた。
別に許した訳じゃない。諦めただけだ。
彼女は断れない。断らない。そういう人間であると諦めたのだ。
「なぁ、春奈。俺の事、好きか?」
「う、うん。好きだよ?」
心が通った面映ゆさなど一切感じない。春奈の言う「好き」が如何に薄っぺらいものであるかを思い知ったからだ。
「俺達、別れようぜ」
「…………ぇ?」
怯えたような表情を浮かべた彼女へ笑いかける。
「財布、一緒に探してくれて嬉しかった。何度かデートにも行ったけど、それも楽しい思い出だった。今までありがとな」
「あ、えっ? 何で……?」
浮気じゃないのに――とでも言いたいのだろうか。
震える唇で何かを伝えようとしている春奈を見ても、何も感じない。全てがどうても良かった。
「用件はそれだけ。もう俺は帰るぜ」
踵を返した俺の背中へ軽い衝撃と共に春奈の体温が伝わってきた。
「ま、待って!!」
縋り付いてくるとは思わず、つい足を止めてしまった俺は無表情で振り返る。
「別れたくない……です」
何だ……ちゃんと自分の意見を言えるじゃないか。
それなら、どうして他の男へ自分の意思を伝えなかった? どうしてお願いを断らなかったんだ?
俺の心を黒い感情が塗り潰してゆく。
「なぁ、春奈。俺からの“お願い”だ。別れてくれ……頼むよ」
目尻に涙を溜め、ふるふると首を左右へ動かす春奈を無視し、俺は続ける。
「……勿論、断らないよな?」
◇ ◇ ◇
あれから半年が経った頃、春奈は学校を辞めた。
聞いた話によると、彼女の妊娠が発覚したらしく、更に身籠った子が誰の子かも分からない状況だそうだ。
鏡を見ると、苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべる自分と目が合った。
クソッタレが。もう俺には関係ない話だろ。
俺は机の引き出しを開け、想い出の革財布を取り出すと、乱暴にゴミ箱へと投げ込んだ。
完
ありがとうございました。