精霊魔法
精霊界に落ちてきてから、ひと月が経った。
『アズサ! 起きろ!』
今日も、クオンが元気に起こしに来る。
とっくに目覚めていた私は、身だしなみを確かめて、貸し与えられた木造家屋の扉を開けた。
「おはよう、クオン」
『うむ、おはようなのだ』
精霊界でどうやって生きて行けばいいのかと思っていたら、普通に家があって、集落のような集まりがあった。
でも、私の他に人間はいない。集落に住んでいるのは……。
『おはよう、アズサちゃん』
『早いなぁ。人間は真面目だ』
『あんたが怠け者なだけでしょ』
狐や猿、鶴や犬などの動物たちだった。もちろん普通の動物ではなくて、みんな人間の言葉を話す精霊だ。
精霊界はその名の通り精霊たちの楽園で、形を持たない無位精霊と、彼らのように動物の姿をした下位精霊がたくさん住んでいる。
『裂け目』の下にこんな場所があったなんて驚きだ。どのおとぎ話よりも不思議な空間だ。
集落がある場所は比較的霧が薄くて、太陽が差し込んでいる。
「みなさん、おはようございます」
精霊たちは基本的に友好的で、優しい。
一か月、彼らと過ごすうちに、暗い気持ちになることも少なくなってきた。
『アズサ、今日は妖兎を捕まえたぞ! 早く焼くのだ!』
「任せて。美味しく調理するね」
『アズサは料理上手だからな! 人間、すごい』
口に加えていた兎を家の前に置いて、クオンがよだれを垂らした。
妖兎という黒い兎は、動物でも精霊でもない。魔物だ。
自然から生まれる精霊とは異なり、魔物はこの世を渦巻く瘴気から生まれる。
魔物は凶暴で、生物を見ると襲い掛かる習性を持っている。
精霊界にも頻繁に入り込むようで、クオンがよく捕まえてくるのだ。
意外と美味しいので、重宝している。
「朝ごはんはスープにしよう」
『早くするのだ!』
「ふふっ、すぐ作るから待ってて」
集落では野菜も作られていて、食べるものには困らない。
このひと月で、すっかり精霊界での生活に慣れていた。突然現れた私を受け入れてくれたみんなには感謝だ。
天狐にはあれから一度も会っていない。
そのことに、少しほっとしている自分がいる。彼の言葉は正しくて、正しすぎるが故に、今の私には苦しい。
『うまい、うまいぞ、アズサ!』
「クオンが取ってきてくれたお肉のおかげだよ」
クオンとは毎日一緒にいるから、かなり仲良くなった。敬称はいらないと言われたので、今ではクオンと呼んでいる。
もう死ぬまでこの暮らしを続けてもいいかな。そう思うくらいには馴染んでいるし、楽しい毎日だ。温泉にも毎日入っている。
何も言われてないけど、いつまでいられるんだろう。
出ていけと言われても、行く場所なんてないけどね。
『そういえば、今日は天狐様が帰って来る日だぞ!』
「え、そうなんだ」
クオンがスープを飲みながら、思い出したように言った。
喋りながらも、視線は器の中にくぎ付けだ。ペロペロと器の底まで舐めている。
しっかりおかわりして、三杯目を食べきったところで、やっと食べるのをやめた。
『天狐様は、世界の均衡を保っているのだ』
「均衡……?」
『四柱の精霊王様のおかげで、人間大陸が無事なのだぞ!』
クオンの言っている意味はよくわからなかったけど、自分のことのように自慢げな姿は微笑ましい。口調は天狐の真似をしているらしいけど、元気すぎてあまり似てない。
『そろそろ来るはずなのだ』
「あ、じゃあ外で待とう」
『うむ!』
座敷を出て、広場に足を運ぶ。
見ると、他の下級精霊たちも集まっていた。多種多様な動物が集まっている様子は不思議だけど、このひと月で見慣れた光景だ。
森の方から、霧に紛れて大きな影が近づいてくる。大木と見まがうほどの、巨大な白狐。
精霊王、天狐だ。
『出迎えなどいらぬと言っておるだろうに』
『天狐様!』
朝日を反射する美しい毛並みが、さらさらと風になびいた。
天狐は精霊たちに歓迎されながら、集落に足を踏み入れる。慕われているんだね。
ひとしきり再会を喜んだあと、天狐は家の前で固まっていた私に視線を向けた。
『人間、どうだ、精霊界での暮らしは』
「は、はい。とってもよくしてもらっています。みなさんお優しいですし、不自由は何もありません」
『そうか。それならいい』
初対面ではあれほど厳しい物言いだったのに、気に掛けてくれたみたいだ。
そういえば、使いを出したのもこの家を用意したのも、彼の指示だという。
天狐は私の前に歩いてきて、鼻をぐいと近づけた。驚いて、思わず一歩下がる。
『ふむ』
匂いを嗅いでいるかな。
顔だけで私の身体よりも大きいから、ちょっと恐ろしい。
『やはり、霊力があるようだ。精霊界に馴染んだことで、目覚めかけておる』
「霊力って、最初に会った時に言っていた……」
『うむ。大地と調和し、自然の理を利用する力よ。精霊魔法という呼び方をすることもある』
「精霊魔法……」
私に魔術は使えない。
生まれた時から魔力がないのだ。生活において魔術は必須で、特に私が住んでいたような田舎の農村では、命に直結する。
火を起こす魔術、雪を解かす魔術、食料を長持ちさせる魔術。どれもなくてはならぬものだ。
中央では、さらに魔術の開発が進んでいると聞く。そんな時代において、私は落ちこぼれ以外の何者でもなかった。
『貴様に魔力がないのは当然であろうな。より上位の霊力が身体に満ちておるのだから、魔力が入る隙間などあるまいて。……しかし人間の身で霊力を持つなどあり得ぬはずだが、実際に目にすれば、我の認識を改めるほかない』
「なぜ私に霊力があるのですか?」
『さあな。わからぬことは、考えても詮無きことよ。それよりも、もっと大事なことがあろう。どうだ、人間。我らが精霊魔法、会得してみる気はあるか?』
天狐がにやりと口角を上げて、私に提案した。
私の中にあるという、霊力という力。それがあれば、落ちこぼれのはずの私が、魔術を使うことができる。
それも、人間には使えない精霊魔法を。
『これまで通り、己を押し殺し、無為に生きるというのならそれでもよかろう。だが貴様に、まだ欲があるというのなら――その力、ものにしてみよ』
「私は……」
俯いて、巫女装束を両手でぎゅっと握りしめる。
自分は落ちこぼれだと思って生きてきた。だから、いらない子だと言われ、捨てられても仕方ない。私が巫女の役目を放り出せば、他の誰かが犠牲になる。なら、自分が我慢すればいい。そう思っていた。
でも、もし……今からでも遅くないのなら。
「私は、強くなりたい」
『いいだろう』
天狐はさらに笑みを深めて、獰猛に牙をむき出しにした。