クオン
木に寄りかかって、膝を抱える。
天狐に言われたことが頭の中でぐるぐる渦巻く。
「そんなこと言われたって……。私が生贄にならなかったらカヤが……」
別に私は、領地のためとか、伝統のためとか、そんなことのために崖から飛び降りたんじゃない。
私が我慢すればカヤが救われる。私はお姉ちゃんだもん。妹のために我慢するのは当たり前のことだよ。
だから、これでいいの。
天狐からしたらくだらないことなのだとしても、私にとっては一番大切なことだから。
「カヤが無事に成長してくれれば、それでいいの。……でも、できればもう一度会いたいな」
死ぬ覚悟なんてとっくにできていたはずなのに。
こうして生き残ってしまうと、欲が出てくる。
「ダメだよね。生きて領地に戻ったことがバレたら、カヤが領主様に何をされるかわからないもん。我慢我慢……」
もう会うことはできない。
ならば、命果てるまでカヤの無事を祈ろう。
「それにしても、これからどうすればいいんだろ……。ここ、ご飯とかあるのかな?」
天狐さんが言っていた使いの人を待つべきか。
白い狐の伝承は、聞いたことがある。人の言葉を話し、災害を予見するという獣の精霊。
まさか『裂け目』の下が精霊界で、そこに住んでいるとは思わなかったけれど。
『人間、やっと見つけたのだ』
膝に顔をうずめていると、隣から声が聞こえた。
顔を上げると、小さな白狐がこちらを見ている。
『天狐様に言われたから来たぞ! 人間を見るのは初めてだけど、思ったより小さいんだなー』
「えっと……あなたの方が小さいような」
『なんだと! 僕だって、あと三百年も経てば大きくなるんだぞ!』
ぴょんと跳ねて、私の膝に乗った。
天狐は巨大で恐ろしかったけど、この子は小さくて可愛い。この子も精霊なのかな?
「ありがとうございます。迎えに来てくれたんですか?」
『おう! もっと感謝しろよ!』
「はい、感謝いたします」
『そ、そうだ。わかってるじゃないか!』
小さな白狐は、嬉しそうに牙を見せて尻尾を揺らした。
「ふふっ。あ、あの、私はアズサです。あなたのお名前は?」
『アズサか! 僕はクオンだぞ!』
「クオン様、よろしくお願いしますね」
クオンは得意げに名乗った。
狐の表情なんてわからないと思っていたけれど、クオンはとってもわかりやすい。
『うむ、よろしくなのだ、アズサ』
クオンの尻尾がパシパシと私に脛を叩いた。ふかふかで柔らかい。
なんだか可愛くて、気づいたらクオンを抱きしめていた。
『むむむ、無礼だぞ、アズサ! 僕は天狐様のお使いなのだ』
「あっ、ごめんなさい、突然」
『嫌だとは言ってないぞ!』
クオンは上ずった声でそう言って、私の首元に顔をくっつけてきた。鼻を擦り付ける。
天狐の毛に包まれるのも気持ちよかったけど、ふわふわしたクオンの身体を抱きかかえるのも心地いい。
嫌ではないらしいので、遠慮なく撫でる。
こうして抱きしめていると、カヤを思い出す。
生まれたばかりの頃は小さくて軽かったのに、だんだん重くなっていって、最近では抱き上げるのも楽ではなかった。こうして抱きしめる瞬間が、一番成長を実感できたものだ。
クオンの柔らかい毛に、顔を押し付ける。
『アズサ? 大丈夫か?』
「うん……うん。大丈夫です。ただちょっと、悲しくなっちゃって」
『人間は大変だなー』
クオンの底抜けに明るい声が、私を勇気づける。
いつまでもくよくよしていたらダメだよね。こんな姿、カヤに見られたら笑われちゃうよ。
『僕がいいところに連れて行ってあげるぞ』
私の腕から抜け出して、クオンが地面に降り立った。
「いいところ?」
『うむ! 着いてからのお楽しみなのだ』
そう言って、すたすたと歩き始めてしまう。
私は袖で涙を拭って、慌てて追いかける。辺りは深い霧で覆われていて見通せないけれど、クオンは迷いなく木々の間を抜けていった。
景色がまったく変わらないから、同じところをぐるぐる回っているような錯覚に襲われる。
『ここだぞ!』
クオンが立ち止まって、声を上げた。
一歩踏み出してクオンの隣に並んだ瞬間、霧が晴れて視界が開けた。
「温泉……?」
『嫌なことは温泉に浸かれば忘れるって、天狐様が言っていたぞ!』
「すごい、精霊界にはこんなに大きな温泉があるんですね」
クオンが案内してくれたのは、岩場に囲まれた温泉だった。
温泉なんて、生まれたから一度しか入ったことない。私の住んでいた村から少し離れた町にあって、家族で訪れたのが最後だ。
「すごいです、クオン様」
温泉は淡い緑色で、湯気が立ち昇っている。
なんだか幻想的で、美しい。
先客はいないようだった。
「私が入ってもいいんですか?」
『大丈夫だと思うぞ!』
「そうなんですか……。ではお言葉に甘えて」
腰帯を外し、巫女装束を脱いでいく。クオンは動物だから、見られても構わないよね。
なにより、いち早く温泉に入りたかった。こんな素晴らしい光景を前にして待てないよ。はやる気持ちを抑えて脱いだ衣服を丁寧に畳んで置く。
平らな岩を選んで、そこにしゃがみこんだ。手を伸ばして、指先をそっと温泉に入れる。
「あったかい……」
『アズサ! 来ないのか?』
とっくに温泉に飛び込み、湯に浮かんでいるクオンに急かされる。
岩に座って、足先からゆっくりと入っていく。立つと膝上くらいの嵩だ。座り込んで、肩まで浸かる。
「わぁ」
思わず口から息が漏れた。
少し熱い温泉は、私の身体をポカポカと温めていく。
「気持ちいい……」
『アズサ、泳ぐともっと気持ちいいぞ!』
「そ、それは大丈夫です」
『む、そうか』
少し残念そうに言いながら、クオンが私の隣まで泳いできた。後ろから抱き着くように、私の肩に顎を乗せる。
『ここは僕のお気に入りなのだ』
耳元で、クオンが呟く。
「そうなんですね。ありがとうございます。クオン様」
『うむ! 元気になったか?』
「はい、元気になりました」
『そうかそうか! 良かったな!』
満足そうなクオンとともに、ゆっくりと温泉を満喫した。
この瞬間だけは、全て忘れられた気がする。