天狐
長い、長い落下だった。
まるで自分が鳥にでもなったような感覚だ。巫女装束がひらひらと舞う。
目を固く閉ざして、衝撃を待つ。死が目の前まで迫っているというのに、おそろしく冷静だ。人は、どうにもならないと焦りすら感じないらしい。
『ほう、なにやら無位精霊が騒いでおるな。どれ』
不意に、誰かの声がした。
モフ。
あれ、思っていた感触と違う。
てっきり地面に叩きつけられると思っていたのだけれど。
「んー……?」
何か、柔らかい毛布に受け止められたような……。
ああ、そうか。私は死んだんだ。きっと身体は衝撃でぐちゃぐちゃになって、原型を残していない。
「死後の世界って、あったかくて柔らかいんだなぁ」
身体をもぞもぞと動かして、その感触を堪能する。地上のあらゆる布よりも柔らかいんじゃないかな。動くたびに、私の身体はモフモフに沈み込んでいく。
頬を撫でるふかふかした何かが心地良い。
幸せ……。
『人間よ、いつまで我の背中に乗っているのだ』
モフモフの中から、身体の芯に響くような低い声がした。
「え? だれ?」
驚いて、閉じていた瞼を開いた。
最初に飛び込んできたのは、視界いっぱいの白い毛。
続いて、私を見つめる二つの大きな赤い瞳。
『我は西の精霊王、天狐であるぞ』
ちょっと不機嫌な声を上げたのは、巨大な狐だった。雪景色のような白銀の毛がゆさゆさと揺れる。獰猛な瞳がまっすぐ私を射抜いた。
「ご、ごめんなさい! えっと、天狐さん? の背中だとは知らなかったんです」
そっか、私を包んでいたのは彼の毛だったんだね。手で軽く触れると、絹のようにきめ細かい手触りだ。それでいて、溶けてしまいそうなほど柔らかい。
「今降りますので……。あ……」
背中から降りようと、お尻を滑らせて移動する。天狐の背は私が余裕で寝転がれるほど広い。
でも、少し移動したら傾斜になった。するする、と速度が増していく。
「落ち――」
今日は落ちてばっかりだ、なんて考えている場合ではない。なんとか、両手で毛を掴もうとする。
ふと、巫女装束が何かに引っ張られた。
「んっ」
『落ち着け、忙しない』
吊り下げられて、ゆっくりと地面に降ろされた。突然の出来事に、思わずへたり込む。
私の背中のあたりを咥えていた天狐が、私の身体くらい太い牙を剥きだしにしている。いや、私の身体は細いけどね?
「ありがとうございます……っ」
『よい。我はこの程度で腹を立てるほど狭量ではないのでな』
あ、これ笑顔なんだ。牙は恐ろしいけど、口角が吊り上げる表情からは親しみを覚える。
家よりも大きな純白の狐だ。毛並みは陽の光を反射して神々しい。
『しかし、貴様』
「は、はい」
『本当に人間か……? まだ目覚めてはおらぬようだが、身の内に秘める力、我にも匹敵するぞ』
「え、あ、あの。人間です。それに、私は魔力もない落ちこぼれですし」
『魔力など。あんなものは霊力の劣化でしかない。我ら精霊の足元にも及ばぬ力よ』
天狐と名乗った白い大狐は、私に顔を近づけてまじまじと見つめる。
見た目は獣なのに、匂いは花畑のように爽やかで甘い。そこにいるのに、存在がおぼろげというか……。不思議な存在だった。
『精霊たちが騒いでいるから来てみれば、思わぬ拾いものだ』
「精霊……あの、ここはどこなんですか?」
『知らずに来たのか? ここは精霊界である』
「精霊界……」
精霊が住まうという、おとぎ話の世界。
まさか実在したなんて。
周囲は深い霧に覆われた森のようだった。見たことのない植物が疎らに生えている。
不思議な場所だった。視界は悪いのに、なんだか居心地がいい。
天狐は器用に足を折りたたんで、座り込む。
『貴様こそ、なぜここにいる。人間が来るような場所ではないぞ』
「あ、そうだ。私、神への生贄として崖から飛び降りたんです。だから、死んだはず……」
『死んでなどいない。死者が会話できるはずがなかろうが。しかし、崖から飛び降りただと? なんと命知らずな……。たまたま我の、雲よりも柔らかい毛並みに着地できたからいいものを』
毛に対する自信がすごい! 確かにふかふかだったけども。
でも、なるほど。だから助かったのか。結構な高さから飛び降りたのに衝撃が一切なかったのは、天狐のおかげらしい。
助けてくれたんだね。
でも……生き残ってしまってよかったのかな。
「いえ、まさしく命を捨てにきたのです。崖下に住む神様にこの身を捧げるために」
『貴様、本心でそう思っているのか?』
天狐は不快そうに目を細めて、そう言った。
本心もなにもない。
私はただ、それを信じるしかないだけだ。領地の実りのために、妹のために。そう自分に言い聞かせないと、投げ出したくなっちゃうから。
『くだらん』
言い淀んだ私に、天狐が吐き捨てた。
「くだらんって……これは領地の伝統なんです。十四歳の巫女を生贄にすれば、豊作が約束されますから」
『我がくだらぬと断じたのは、貴様の心持ちよ。納得しておらぬのにそれに従うなど、笑止千万。生きとし生ける者は己の欲求を追求する義務がある。違うか?』
「そんな言い方……っ。私が我慢すれば、全てが丸く収まるのです。領地は豊かになり、同年代の子たちも助かって、妹は幸せになれる。私が生贄になることが一番良い道で……」
『話にならぬな』
天狐が立ち上がり、私に背を向けた。
つい感情のまま言い返してしまった。彼の言葉は、私への全否定に等しかったから。
でも、そのせいで機嫌を損ねてしまったらしい。
『しかし生贄とは……。時折、人間の娘が投身自殺をしていたのはそれが理由か。人間の死肉など喰わぬというのに、迷惑な』
「天狐様が豊作をもたらす神なのではないのですか?」
『たしかに、我はこの『裂け目』の主だ。だが神ではない。あるいは恵みを与えることも可能だが、無理に手を加えれば大地が疲弊し、やせ細る。故にやらぬのだ』
そもそも神などおらぬ、と最後に付け足した。
もし神様がいないのなら、生贄巫女の伝統はなんのためにあるの?
まるで、私が飛び降りたのは無意味みたいじゃない。
『ふっ、まあよい。しばらくはここで暮らすといい。後で使いを出そう。精霊界は、貴様にとっても居心地がいいはずだからな。心を見つめ直す良い機会にもなろう』
天狐は意味深な言葉とともに、霧に溶けるように消えていった。
残された私は、地面に手をついて項垂れる。
いらない子と言われ、生贄にされ、何故か生き残ってしまった。……私はこれから、どうしたらいいの?