9.女神の奇跡
エリザが花瓶を掴むと水が飛び跳ね、挿してあった二本のローデンシーの花が大きく傾いだ。構わずに、そのまま床へ向かって投げつける。
大きな音を立てて、ガラスは砕け散った。
自分の心は、すでに粉々に砕けている。
エリザはガラスのかけらをそのままにして、教会へと走り出した。尖塔の螺旋階段を上へ上へと登っていく。
唯一捧げた愛を、あの人は何でもなかったものとして扱った。蔑み、想いを踏みにじられて、愛情だけでなく、自分の存在をも否定されたと思った。
愛していたのに愛していたのに愛していたのに。
何度も何度も呟く。
あの人への想いを断ち切れない。あの人はわたしを愛しているはず。
絶望しても、そんなふうに考えてしまう自分が嫌で嫌でたまらなかった。
高いところまで辿り着いたら、身を投げよう。
塔を登り切り、エリザは衝動的に窓から身体を躍らせる。
落ちていく。
ふと思った。あの花をなぜそのままにしてしまったのだろうと。
割れた花瓶と一緒に、二輪の花は床に落ちたまま。
ガラスは砕け、水は流れていった。あのローデンシーの花を枯れるがままにしてしまった。そのことがひどく心残りになっている。
もう一度、あの花を別の花瓶に挿しておくべきだったのに。
そう悔いるエリザは、もはや自分がどこにどうしているのかさえ分からなかった。
気づくと、エリザは自分の家に戻っていた。床の上に砕けたガラスの花瓶を見つけ、落ちているローデンシーの二輪の花を手にしようとする。
床の上でどうしてか指が滑る。うまく取れない。
エリザは幾度か試みて、やっと分かった。自分の手がすり抜けてしまって、花を掴むことができないのだと。
そのとき、突然眩い光を感じた。
光はエリザを包み込むように大きく広がる。輝かしいと同時に心安らぎ、それでいながら畏怖を感じさせる不思議な光だった。
「エリザ」
光のなかから、エリザは温かみのある声を聞いた。
彼女はためらうことなく、それを女神の呼びかけだと悟った。自然と胸の前で両手を組み、その光の前で言葉を口にした。
「女神様。わたしはもう生きていないのですね。花を取れませんものね……」
エリザはうなだれる。花を思いやるには、遅すぎたのだ。
女神の声は静かに響く。
「あなたは生と死の狭間にいます。わたくしがそうしたのです。こんなふうに人間に干渉することはほとんどないのですが」
地母神の存在は、当時はもっと身近だったのだろうか。大地の女神アリュイアはエリザを哀れに思っていた。
「あなたは、わたくしの愛しい娘」
「……娘?」
エリザはかすれた声で問いかける。
「そう。わたくしにとっては、この町の人間はみな愛しい我が子。娘と息子なのですよ。そんなかわいい娘の一人が、わたくしの大地の花を気遣ってくれたこと、心に染み入りました」
女神が微笑みかけたように、エリザには思えた。
「わたくしは、あなたのような心優しい娘を、このまま黄泉路へと向かわせたくないと思いました。もう一度生き返って、花を活けてみませんか」
エリザはすぐには答えられなかった。自分が何をして花瓶を壊したのか思い返していたからだ。
「それは……できません」
ゆっくりと自分の思いを口にする。
「慈悲深い女神様。わたしを思いやってくださって、ありがとうございます。でも、わたしは愚かだったのです。あの人を愛していました。あの人が愛してくれていると思っていました。今でもそう思っています」
透き通った右手を握りしめる。
「もう生きていくのは嫌です。何もかも忘れてしまいたいのです」
「そうですか」
女神の言葉は穏やかで温かかった。
「では、忘れなさい。あなたが望む状態で、あなたが癒される日まで」
「……女神様」
エリザは、女神が自分の願いを聞き届けてくれるとは思いもしなかった。
彼女とて、幼いころに物語として知っていた大地の女神が実在するとは考えてもみなかった。秋に行われる女神の祭りを見に行くことや、その奇跡を伝え聞くことがあっても、本当に自分に力を授けてくれるようなことはありえないと。
女神の姿は厳かな光でしかなく、響き渡るのは声だけだった。それでも、エリザは確かな女神の存在を感じる。
彼女は問われたことを、思いのままに答える。
今は人間として生きる気持ちがないこと。心が傷ついて、何もかも手放してしまいたいこと。そうして、何も感じないようになってしまいたい、と。
それでも、花をこのままにしたくないという気持ちを持っている。それに、町の人たちにこれまで親切にしてもらったことも心残りだ、と。
エリザは神々しい光の女神を前にして、ひとつひとつ素直な気持ちを打ち明けることができた。
「それならば」
女神アリュイアの告げる声が合図だった。
町の高台には円形の台座があり、芽吹いた草が上を覆い、ローデンセスの町の時計台と木組みの家の古い銅像があった。
そばに取りつけられたプレートには『ローデンセスの町の像』と書かれている。
その緑の一角が魔法のように変わり始める。一瞬でエリザも変化を遂げた。
彼女は高台の上の銅像となった。
女神に願いを叶えられ、エリザは心も体も深い眠りに就いたのだ。
女神は、床に落ちていた二輪の花に手を差し伸べる。すると、水気を失いかけ、弱っていた花々は生き生きと甦った。
二輪のローデンシーの花は想いを紡ぐ。
「わたしたちも、エリザと一緒にいたいのです。エリザを見守ります」
花たちの言葉を、女神はすぐさま聞き入れてくれたに違いない。
高台に小さな変化が起こる。
エリザは二輪の花を手にした。
プレートの言葉もいつの間にか変わっている。
『ローデンセスの町・乙女と二輪の花の像』
昔からこうした銅像があるかのように、町の人々の記憶も書き換えられていた。
こうして、エリザは銅像として、町を見下ろす位置に佇むことになった。二輪の花もエリザとともにあることを選んだ。
女神の奇跡はそれだけにとどまらない。
エリザの心の傷が癒えるにつれて、町の景色を眺めることができるようにした。さらにエリザは多くの音を聞き分けることができるようになった。このローデンセスの町を広く楽しめるように。
ただし、記憶は教会の鐘の音とともに封印されて。
そうして、何百年もの時を過ごしてきたのだ。
教会の鐘が鳴り終わったとき、エリザは封じられていたすべてを思い出していた。
時を遡っての記憶の奔流は、荒波となって彼女の心を呑み込む。
わたしはあの人を本当に愛していたのに。あの人と結婚して一生一緒にいられることをずっと夢見ていたのに。あの人もわたしを愛していたはず。退屈しのぎだなんて絶対に信じない。絶対に嘘よ。こんなこと、絶対に信じないわ。
己の砕かれた心と向き合うのは辛かった。
昔の自分の想いに、気持ちを激しくかき乱され、心は切り刻まれるように痛んだ。悲しかった。どうしようもなく苦しかった。
人間ならば、涙を流しただろう。今のエリザにはそれができない。
いっそ銅像に戻ってしまいたい……。
エリザは、そんな思いを抱く。それでも金属の像には戻らない。
これまでの銅像としての数百年は、エリザの心を少しずつほぐしていたから。
今はただ、暖かな陽光のなかで、底知れぬ眠りへと導かれていく。