8.封じられた過去
「鐘の音に何があるの?」
エリザは思わず問いつめるように訊いた。
「……」
花たちからすぐに答えは返ってこない。
エリザがもう一度尋ねようとすると、波が引くかのように夢の遠ざかる気配がした。もう、夜明けなのだろう。
花たちの声が遠くから響いてくる。
「教会の鐘の音を聞いたら、何もかも思い出すの。……きっともうすぐ聞こえる日が来るわ」
聞こえる日が来るわ。
エリザはその言葉の余韻が残っているうちに、夢から覚めた。
数日後に、ジェイがひとりでやってきた。
また猫を預けて来てくれたのかとエリザは思う。だが、ジェイの足取りは重く、俯いたままだった。
何かあったのかと、エリザは不安になる。
ジェイは町に目を向けようともせず、力なく台座に腰かけた。
「ルトが……いなくなってしまったんだ」
思いもかけない話だった。
ずっとジェイは猫と一緒のような気がしていた。
「昨日から姿が見当たらない。この辺りを探してみたけど、見つからないんだ。まだ仔猫なのに。誰かに拾われているならいいけれど……心配なんだ」
エリザは胸が締めつけられる。何か言葉をかけたい。でも何もできない。
「また探してみるよ」
ジェイは、とうとう町を眺めることもなく帰っていった。
ジェイは翌々日にも現れた。やはりひとりで、憔悴しきった様子だった。
ルトはまだ見つからないという。
「もうルトは戻ってこないのかもしれない……」
ジェイはひどく気持ちが塞いでいるようだ。肩を落としたまま台座に座り込むと、小さく呟くように話し始めた。
「昨日、親戚が来たんだ。ここを離れてぜひうちの店に来てほしいって。娘さんの話もしてくれたよ」
エリザは言葉を失う。ジェイはため息をついて、続ける。
「猫もいなくなってしまった。またひとりきりだ。もう、そろそろここを離れろってことかな」
エリザは気が動転する。
ジェイ、そんなこと言わないで。わたしを置いていかないで!
そう叫びたい。けれど、聞こえることはない。何も届かないことは、分かっていた。
「それじゃ」
話すだけ話すと、ジェイはまた町に視線を転じることもなく、帰ってしまう。
エリザはただ混乱したまま見送るしかなかった。
わたしには何もできない。動けないのだから。
エリザは胸が張り裂けそうだった。
このままジェイがいなくなったら、絶対に嫌。会えなくなるなんて、耐えられない。
でも。
エリザは乱れた気持ちを正す。
もしも、わたしが本当に人間に戻れるのなら、戻りたい。きっとこうなったのには理由があるはず。それを知って、人間になりたい。
教会の鐘の音を聞いたら、何もかも思い出すと花たちは言っていた。
人間になれれば、ジェイに会いに行ける。声をかけて、想いを伝えることだってできるわ。
わたしは、ジェイのことが好きなんだもの。
エリザの心のなかに、ジェイの笑顔が浮かんでくる。
どうしても手放せない想いは、身の内に熱く宿っている。
過去を思い出したい。教会の鐘の音を聞いてみたい。
エリザは初めて心から願う。
教会の青い屋根を何度も見据え、懸命に耳を澄ました。それでも、いつもどおりの物音が入ってくるだけだ。
ただ願うだけでは、だめなのかもしれない。もう少しすれば、時計台の昼の鐘が鳴る時間になるし。
諦めてそう思っていたときだった。突然、エリザの耳に鐘の鳴るような音が聞こえてきた。
それは高らかに三回響き渡った。
時計台の鐘にしては時刻が早く、鳴る回数も違った。時計台は常に六回か十二回だ。
それに、いつもの重厚な響きとはまるで違う。ずっと軽やかで華やかな小さな音色。
ああ、これが教会の鐘の音だわ。
今朝は結婚式があったのね。
すぐにそれと分かった。
記憶がするすると甦っていく。思い出した。
これは、祝福の音のはずだった。
エリザは教会の鐘を聞いて、わくわくと胸を躍らせたものだ。
ずっと昔、ローデンセスの町の時計台と教会は、ひとつの建物だったという。その大きな鐘を、朝昼夕の三度のお祈りの時間と、結婚式や女神の祭りなどお祝いのときに鳴らすようになっていた。
しかし、鐘や建物の老朽化で時計台が別に建てられることになった。教会は元の場所に再建され、小さな鐘があとから取りつけられた。
時を告げるのは時計台に譲られたため、その鐘は祝祭のときにのみ鳴ることとなった。
日常で聞こえるのは、結婚する新郎新婦の前で三度鳴り響くときだ。
エリザは夢見ていた。
自分もあの人とこの教会で結婚式を挙げるのだと。
信じ切っていた。何ひとつ疑うことはなかった。
地母神アリュイアの加護があるというこの町に、エリザは生まれた。幼いうちに両親を流行り病で亡くしていたが、この町の人々に細やかに見守られて育った。
エリザは町でも評判の器量良しで、働き者として人々に認められていた。
糸を紡いだり、衣服を繕う仕事をする平凡な毎日ではあった。それでも、エリザは歌を歌うのが好きで、暮らしを楽しんで過ごしていた。
しかし、あるとき避暑にやってきたという一人の男性に見初められ、心を奪われてしまった。
彼の言うことを何もかも信じて、彼が自分を唯一深く愛しているのだと思い込んでいた。
ある日、教会の鐘の音を聞いて、エリザは彼に尋ねた。
「わたしたちもいつか、あの教会の鐘のもとで結婚するのでしょうね」
その人は何でもないことのように答える。
「そうだな。きみはとてもきれいだからな」
その言葉を、エリザは深く心に刻んでいた。
だが、彼はある日突然町からいなくなってしまった。
エリザは取り乱して探し回り、やっとのことで彼が住んでいる都市まで辿り着いた。
彼がその都の裕福な貴族だと、エリザはそこで初めて知る。彼女は彼の住まいだという大きな屋敷の前までやってきた。
ようやく再会したその人は、今までとは全く違う態度をとった。
「俺には妻も子どももいるんだ。お前は向こうでの退屈しのぎに過ぎない。もう用はない。さっさと帰れ」
エリザは彼に追いすがって、嘘だと叫んだ。けれど、使用人たちから話を聞くにつれて、騙されていたことを知った。
エリザの絶望は深かった。人生のすべてが漆黒の闇に閉ざされてしまったかのように。
彼女はふらふらと、気づかぬうちに町へ戻っていた。
自分の家に入り、花を飾っている卓上の花瓶を目にした。
細長い円筒型のガラスの容器で、やや開いた口の部分には繊細なレリーフがあしらわれている。
少し前に、まるで別世界に紛れてしまったかのような煌びやかなお店で、エリザはそれを手に取った。
精巧なクリスタルガラスの細工が光を反射して、きらきらと七色に輝く。その美しさにエリザは見とれた。彼女の様子を眺めていた彼は、口を歪めて笑うと、店主を呼びつけて買い取る。
裕福な人間にしか入手できないくらいの、高価な品物だった。
今となっては、忌まわしい思い出に過ぎない。
そのガラスの花瓶を、エリザは壊してしまいたくなった。