7.遠い記憶
近所の子どもたちは、猫に「ルト」と名前をつけてくれたという。
ジェイはいつものように、町を見渡した。
暖かく明るい日差しが、家々の屋根を照らし出している。遠くの花畑にはたくさんの花が咲き、美しい色合いをこちらへ投げかけてくる。
エリザはその心地よい風景を、ジェイとともに眺めている気持ちだった。
「やっぱりこの町はいいな」
そう呟いてから、彼はエリザのそばの台座に座り込む。エリザは胸の鼓動が感じられ、それが速まるのも分かった。
ジェイは遠くの方を見つめてから、話し始めた。
「実は冬の間に、大きな町にいる親戚からこっちへ来たらどうかと呼びかけられていたんだ。春になったら引っ越してこないかって」
引っ越してこないかって?
突然の話に、エリザは衝撃を受ける。心の明かりがすうっと消え、冷えていくような気がした。
ジェイがこの町からいなくなるかもしれないなんて。
エリザの動揺は、ジェイに悟られることはない。
ジェイは一息つくと、再び口を開いた。
「ぼくのような靴職人なら、向こうにはたくさん仕事があるみたいだ。それに、親類の娘さんを結婚相手にどうかって話も持ちかけられたんだよ」
エリザはその言葉に、更に心が暗く陰り、冷え切った金属のように感じられた。
ジェイに結婚の話が出ているなんて。
「でも」
ジェイは話を続けた。
「ぼくはこの町が好きだ。このローデンセスの町の人の靴を作りたいんだよ」
エリザは頷く。何度も、自分に言い聞かせるように。そうしたつもりにしか見えないだろうけど。
これまでエリザは、ジェイが自分の靴作りにかける思いを繰り返し聞いてきた。普段口数が少ないのに、なぜか靴のこととなると、彼は饒舌なのだ。
ここに住むみんながこの町の大地を踏みしめて、しっかり歩けるような素敵な靴を作るのが自分の仕事だと。
そんなふうに熱く語るジェイの姿がとても好きだった。
「大きな町の靴屋では、たくさんの靴が作れる。材料も豊富らしい。上質ないい皮も手に入るそうだ。だけど、誰がどこで履くのか分からないんだよ」
ジェイにはそれがひどく気に障ることらしい。
「もちろん特別な注文品も作ることがあるだろうけど。だいたいは履く人を知らないまま同じものを多く作るみたいなんだ。それが何だか気が進まなくて」
冬の間からこれまで、ジェイはずっとそのことで悩んできたのだとエリザは理解した。春先に浮かない表情だったことも、きっとそれが原因だったのだと気づく。
「もちろん、親戚のところに行けば、ひとりで寂しい思いはしなくて済む。みんなにも、早くお嫁さんを見つけるようにと何度も言われたし、自分でもそんな人がいたらいいなとよく思っていた。だけど、今はルトがいるからな。いろいろ世話をしたり話しかけてやらなきゃいけないから、そんな必要も感じない。ちょうどよかったよ」
そうなのね、とエリザはしみじみ思った。
仔猫がいるせいで、あまり自分のところへ来てくれなくなったのではと考えていた。けれど、実際のところは猫のおかげで、ジェイは大きな町へ行かずに済むのかもしれない。
だけど、ジェイのお嫁さんは見つからないままなのでは。
そう思うと、エリザはどこか心に痛みを感じる。
ジェイのような素敵な人に、ずっと伴侶がいないのは不自然な気がするのだ。
「あとは、きみのことがある」
え、と思わずエリザは声を上げた。伝わらないだろうけど。
ジェイの言葉は明らかにエリザを差している。
「この町には銅像のきみと似た女性がいるんじゃないかなと考えてしまう。きみを見ていると、栗色の長い髪や紫水晶みたいな瞳が思い浮かんでしまうんだ。それに、ぼくは初めてここに来たとき、きみが歌う声を聞いたような気がしてしまったんだ」
やはり、ジェイは歌を聞き取っていた。それに、栗色の長い髪と……。
ジェイ、わたしはここにいる。ここにいるわ!
エリザの胸は今までになく、高鳴る。どきどきと、もしかしたらジェイに聞こえるのではないかと思うくらいに。
ジェイは続けて告げる。
「きみみたいな銅像じゃなくて人が、どこかにいるんじゃないかって思ってしまうんだ。その人になら、こうやって自分の気持ちを語れる気がして……。変かな、こんな考え」
ジェイは目を細めて、寂しそうに笑った。
エリザは首を振りかぶる。そういう動作をしたつもりに過ぎない。けれど、ジェイの言葉はエリザには思いがけないものだった。
このところ、何度か二輪の花と話す夢を見ている。よく覚えていないことも多い。
しかし、そのローデンシーの花の色が鮮やかなのと同様に、そのときの自分はくすんだ青緑色の銅像ではない。長い栗色の髪に紫色の瞳の人間のように思えるのだ。
鏡に自分の姿を映したわけではない。それでも、なぜかそうだろうと考えていた。
この町にはどちらかというと茶色や青色の瞳の人が多く、紫水晶にたとえるような瞳は珍しい。ジェイが夢の自分と同じ姿を思い描いているのは、ただの偶然とは思えない。
それにエリザはこの瞬間、おぼろげながら思い出していた。思い返せば返すほど、確かなことに感じられた。
自分はかつて現実にそういう姿をしていたに違いないと。
「また、ルトの世話の合間に来るよ」
ジェイはエリザのもとから帰っていった。
エリザは、ひとり推し量る。
見ること、聞くこと以外の感覚もどこか記憶にある気がしていたのは、以前に人間だったからではないのかしら。
自分のはるか遠い記憶を辿る。
彼女はもう、ほとんど疑うことはなかった。
自分は何百年もの昔、人間として生きていたことを。何かがあって、銅像としてここにいることになってしまったことを。
何が起こったのかは分からない。その辺りの記憶はいくら手繰り寄せようとしても、何ひとつ思い浮かばないような、覚えていないような気がした。
そういえば、花たちが「そのうち思い出す」と告げたことがあった。
どういうことだろう。
エリザは思いを巡らせながらも、その夜の眠りを待つことにした。
夢のなかで、エリザはこれが夢だと気がついた。
右手の内の二輪の花は銅像ではなく、白からオレンジ色と白からピンク色に染まる花びらをつけている。
「ローデンシーの花ね。あなたたちは本当に生きたお花だったのね」
エリザは確信を持って、花たちに声をかける。
「そうよ」
二輪の花は揺れながら、澄みわたる風のような声で答える。
「エリザがわたしたちをお部屋に飾ってくれたのよ。ずっと昔に」
エリザは自分の姿を確認する。栗色の髪がたゆたう。きっと瞳は紫色に違いない。
「それなら、わたしもそのときは人間だったのね?」
エリザはゆっくりと問いかけた。
「ええ。昔、あなたは人間として生きていたときがあるわ」
「やっぱりそうなのね」
エリザはそのことをどう考えてよいか、まだ分からない。
花たちが尋ねた。
「昔を思い出したの?」
彼女は首を横に振る。
「思い出していないわ。だけど、ジェイが私の髪は栗色で瞳が紫色だと言ったの。この夢のなかでもそうみたいだけど、ずっと昔もそうだったような気がしたのよ」
「そうよ。もうすぐわたしたちは戻れそうなの。あなたもきっと戻れるわ」
「戻れるって?」
エリザはこの間、本来の姿と言われたことを思い出す。でも、まさかと思う。
「わたしたちは元の切り花に。あなたは人間に」
花たちの言葉に、エリザは息を呑む。
一瞬のためらいののちに、問うべき言葉を口にする。
「わたしは人間に戻れるの?」
「そう。でも、まだ時間が必要かもしれない。その前に、教会の鐘の音も聞こえてしまうから」
教会の鐘の音……!
エリザは、花たちが言い出したことに驚く。