6.花の声
翌日、ジェイは散歩に現れなかった。
仔猫はミルクを飲んだのか、ジェイの家でどう過ごしているのか。そんなことを聞かせてもらえるのではないかと密かに思っていたのに。
日もすっかり暮れてしまうと、エリザの気分はがっくりと落ちてしまった。
次の日も、よい天気だったにもかかわらず、ジェイはやってこない。
そのまま数日が過ぎると、エリザはひどく心が落ち着かなくなった。
五日、いやもう六日経つ。春になってから、こんなに長くジェイが訪れなかったことはない。
どうしてジェイは来なくなってしまったのだろう。
そのことばかりを考え、時計台のお昼の鐘が鳴ったことさえ気づかなかった。
普段なら、昼休みの人々の談笑に心を和ませ、町の様々な出来事を知ろうと懸命に聞き入るのに。
ぼんやりと町を眺めているだけだった。
町の人たちや観光客が高台を訪ねてきても、エリザはぼうっとしていた。
そのうち、自分はどうかしているとエリザは気づいた。人間たちを見ているのがだんだん辛くなってきたのだ。
心が濁った渦を巻くようで、ざらざらとした嫌な感じがする。
あの人たちはみんなジェイと一緒だ。生きて動いて伝えられる。わたしはここに立っているだけ。見て聞くことはできても、声をかけても通じることはないし、そばに行くこともできない。
ただの青銅で造られた銅像に過ぎない。
いつも親しんでいる町の景色に靄のようなものがかかり、遠くに隔てられてしまったかのように感じる。
わたしは、町の人たちと同じにはなれない。猫みたいに動くことも声を立てることさえもできずにいる。ジェイが来なくても、ずっとこのままでいるしかない。何もできない。
暗い感情が水の上に波紋を立てるように、大きく広がっていく。
エリザは急に悲しくなった。自分が惨めだった。心が黒く塗りつぶされるようで苦しい。
こんな辛い思いをしたこと、ずっとなかった。人々がみんな羨ましくて、厭わしいとさえ感じる。
あれほど好きな町の人たちを嫌いになるなんて、そんなひどい気持ちを持つなんて。
こんなこと初めてだ。
もう、ジェイのことを考えるのはやめよう。
どんなに手を伸ばしたところで、届くことなどない人なのだから。
エリザは懸命に心を抑え込む。
ジェイの気持ちや感じることを知りたいと、様々なことを味わうのももうやめたほうがいい。
草や葉の触れる心地、日の光の温かさ、夜風の冷たさ、みんなもういらない。
町の人をこんなふうに思ってしまうのなら、時計台の鐘の音だって聞きたくない。
教会のことももう知らなくていい。この町の人々の話し声も姿さえも、全部消してしまえばいい。
歌など二度と歌わない。
元の銅像に戻ってしまいさえすれば、ジェイのことで悩まなくて済むわ。
しかし、どれほど思いつめても、エリザは完全に銅像に戻ることはなかった。
感覚を閉ざしたつもりであっても、ただ眠り込んでしまっただけ。次の朝にはまた町の人々の姿を目にし、声を聞いてしまう。
思いどおりにはいかないらしい。
銅像に戻りたいと願ってもそうはならず、一日の終わりに眠りが訪れ、夜明けとともに目覚める。
そんなとき、エリザはやはり自分を呼ぶ声を聞いた気がした。その声は、彼女を励ましてくれるようだった。
だから結局のところ、エリザは完全に自分を閉ざすことはできなかった。
そんなある日、遠くから猫の鳴き声が聞こえてきた。そして、ジェイの声も。
見ると、あの拾った猫を抱えてこちらにやって来るジェイの姿があった。
〈ジェイ、待っていたのよ〉
エリザは思わず話しかけた。
「やあ。今日は猫と一緒に来たよ。こいつの具合いが悪くてね、しばらく散歩にも出られなくて参ったよ。やっと元気になったんだ」
久しぶりに会ったジェイは、以前と比べると快活そうに見えた。そのジェイの腕のなかで、仔猫は薄青い色の瞳を見開いて、みぃ、と小さく鳴いている。
ジェイは白い猫を抱いたまま、町を眺めた。猫に「よく見えるか。いい町だろう」などと話しかけている。
しばらくしてから、台座に腰かけた。仔猫は機嫌よく、ジェイの膝の上に乗っている。
「猫がすっかり話し相手になってくれてね」
そう話して耳の辺りの毛並みを撫でた。
エリザの心は一瞬で曇った。せっかくジェイに会えたというのに。
確かにジェイはひとりきりで、話し相手が必要だったのだろう。でも、今はエリザよりもっと相応しい猫がいる。
仔猫は自分よりずっと気にかけてもらえるに違いない。
エリザはそう思いつめて、心が塞いでしまう。
エリザの心配は、現実のものとなった。
ジェイは猫の世話のせいか、その後も散歩に出ない日が多くなったらしい。たまに猫を連れて、高台まで来てくれることがあるくらいだ。
会える日がどうしようもなく待ち遠しくて、でも来てほしいとジェイに訴えることもできず、虚しい気持ちになった。
その一方でジェイに会うと、そんな思いは一遍に吹き飛んでしまう。猫のことは気になるけれど、それでもやっぱり、エリザはジェイと一緒にいたかった。
待つだけの時間は、何も感じない銅像に戻りたいほど寂しかった。いっそ感覚を閉ざしてしまいたいと何度も思った。けれども、会えたら途端に心が弾んで嬉しくなる。
それに。エリザはジェイを想う自分の気持ちが大切なもののような気がしていた。
その内側から沸き起こる感じが、寒さや暑さ、その他様々なものの感覚よりもはるかに尊いように感じていた。
エリザは少しずつ春が通り過ぎていくのを感じ取っていた。もうすぐ短い夏がやってくる。
日差しは強くなり、緑も濃くなった。
町の屋根の間を緑が覆うように枝を伸ばしている。丘の上の花畑も見ごろだ。
ローデンシーの花も一斉に咲き乱れ、白を基調とする花が日に当たって丘を明るく照らし出していた。淡いオレンジ、黄色、ピンクの色が、薄明かりのようだ。
町はすっかり賑わいを見せている。エリザのいる高台にも、裕福そうで物珍し気に町を眺める観光客の姿が増えていた。
エリザは夕暮れに、ひとりで歌を歌った。
実は、春になってから人に歌が聞こえることが全くなくなっていた。
自分が意識しすぎると聞こえないことと関係があるのかと、最初は思った。だが、どうやらそうでなくても伝わらなくなってしまったみたいだ。幼い子どもにも、赤ん坊ですらも。
あれは一時のことだったのだろうか。それともそんな気がしただけなのかもしれない。
考えてみれば、おかしな現象だった。
何だったのかしら。
エリザは寂しく思いながらも、諦めることにした。
そんなある夜、エリザは夢を見た。
いつもと同じ場所にいて、自分を呼ぶ声を耳にした。
これまで何度も自分を励ましてくれた声音。それがどこから聞こえてくるのか、確かめるまでもなくエリザは分かっている。
彼女は手もとの花に目を向ける。
花たちはゆらゆらと揺らぎ始め、こう告げた。
「エリザ。わたしたちはもうすぐ元に戻りたいの。春の間に。エリザもきっと元に戻れるわ」
その透明な声にエリザは問いかける。
「元に戻れる?」
答えは返ってくる。
「あなた本来の姿に」
「本来の姿って?」
疑問を口にすると、花々は微風のように囁いた。
「エリザ。あなたの変化は、あなた自身が一番分かっているはず」
何のことか分からず、エリザは混乱する。
二輪の花は揺れ動く。
「ジェイはあなたと魂の響きがよく似ている。あの人とは違う」
「あの人って、誰? 何の話をしているの?」
エリザは髪を振り払って、尋ねる。
「そのうち思い出すわ」
花はいつの間にか鮮やかな色をしている。美しく麗しい花びらが輝く。
「過去を思い出したら、あなたはとても辛くなるかもしれない。でも、きっと大丈夫。信じて」
エリザが声を上げようとした瞬間、夢は消え失せた。
夜の闇に、エリザはただひとり残されている。
二輪の花は、元のように手のなかにあった。
翌朝、久しぶりにジェイがやってきた。珍しく猫を連れていなかった。
「やあ。今日は子どもたちが猫と遊んでいるから、ひとりで散歩をしているんだ」
ジェイは朗らかな様子でエリザに話しかけた。
猫がいても、わたしのことをちゃんと気にかけてくれるのね。
エリザはそう思うと、嬉しくなる。心に明かりが灯ったようで、温かく感じるのだった。