5.鐘の音
鐘の音なんて、何も聞こえない。
少なくとも、時計台の鐘が鳴る時刻ではないと思う。
時計台以外に鐘があるなんて。本当に教会に鐘があって、鳴っているの?
エリザはひどくうろたえる。
自分はジェイと同じ風景を見て、同じ音を聞いているはずでは。
エリザの立っている場所からは、ほぼ町の中心全体を見渡すことができる。しかし、右側に樹木の生い茂った小山があり、隠されている部分もある。教会は屋根の部分しか見えない。
教会に鐘があることを、彼女は全く知らなかったのだ。
ジェイはどうやら、その鐘の音を耳にしているらしい。
それなのに、エリザには何も鐘らしい音色は響いてこない。
「この音を聞くと、妹の結婚式を思い出すよ」
ジェイは懐かしそうな表情で続けた。
「ぼくの両親は早くに亡くなって、ずっと妹と二人、隣町の親戚に面倒をみてもらって育ったんだ。靴職人として独り立ちするときに、ぼくと妹は生まれたこの町に戻ってきたんだよ。子どものころ、このローデンセスの町が好きだったからね。二人でしばらく住んでいたんだけど、妹に結婚の話があって」
ジェイが今ひとり暮らしなのは、エリザもすでに知っている。
「あの教会で式を挙げて、妹は隣町へ行ってしまった。時々便りが来て、元気に旦那さんと暮らしているみたいだ。昨年の秋には赤ん坊も生まれたそうだよ。妹はもう向こうに馴染んだんだな。ぼくはずっとひとりでここにいるのに」
ジェイはひとりで、もしかして寂しいのではないだろうか。
そう思った途端、エリザは胸のうちがきゅっと縮むような切ない心地がした。
〈ジェイ〉
エリザは初めて名前を呼んでみた。無論、彼には届かなかった。
教会の鐘ももう鳴ることはないのか、ジェイは話を終えてからは黙って町を眺めている。
やがて、彼はゆっくりと歩き去った。
残されたエリザは、ひどく混乱した。
ジェイはこの町にいて、寂しい思いをしているのではないか。
それに。
教会の鐘の音は、わたしにはとうとう聞こえなかった。
教会の塔の青い屋根部分ははっきり分かるが、下の方は見えない。町へ降りて、あの塔を仰ぎ見れば、鐘の外観が目に入るのだろうか。
ジェイは、教会の鐘が鳴るという。
しかし、エリザはこれまで時計台以外に鐘の音らしいものは、全く聞いたことがない。
思いもかけないことだった。
この数百年をかけて、少しずつ光や音を感じるようになってきたと思う。そして、このところ急に他の感覚も味わえるようになっている。
集中すれば、かなり遠くの音だって聞き取ることができる。それなのに、前から耳に届いていてもおかしくないような教会の鐘の音が聞こえていないとは。
一体どういうことかしら。
エリザは何度も教会の方を覗き込み、樹木の合間からできるかぎりその建物を視野に入れようとした。何か音がしてこないかと耳を研ぎ澄ましてみる。
けれど、全くそれらしいものが響いてくることはなかった。
疑問のままその日は暮れ、町は夜の闇に包まれる。明かりがひとつひとつ消えていく。
人々がみな寝静まるころ、エリザもうつらうつらとし始める。
ゆっくりと夢の扉のなかへ入っていく。
「エリザ」
「エリザ」
呼びかける声は、今夜も聞こえてくる。どこか透明で、そよ風のような、人とは異なる者の声。
よく耳を傾けると、似たようだけど別の二つの声。繰り返す声は、いつも変わりない。
「誰なの?」
そう尋ねる自分の声が、明瞭に耳へ入ったような気がする。
はっと目を覚ます。
エリザは普段どおりに台座の上に立っている。自分の声がしたのは夢だったのか、それとも現実だったのか、はっきりしない。
東の空には明るい兆しが見られるが、まだ零れそうなほどの星が瞬いている。
エリザは柔らかい風を頬に感じる。
〈誰なの?〉
もう一度、問いかけてみる。
すると、右手の辺りに何かが触れるのを感じた。
〈わたしたちよ。ローデンシーの花〉
〈エリザの手のなかのローデンシーの花〉
透き通るような声が風に浮かぶ。手にしている銅像の一部のはずの、二輪の花が揺れている。それは、見る間に色鮮やかに変化した。
ローデンシーの花は中心部が黄色で、花びらの色は奥は白く、だんだんと先へ向かってオレンジ、黄色、ピンクに染まる種類がある。
一輪は白からオレンジ色に転じる花。もう一輪は白からピンク色に転じる花。花を支える茎とハート形の葉も鮮やかな緑色をしている。
美しい色を帯びた二輪の花は囁く。
〈わたしたちは春のうちに戻りたい〉
突然の花の変わりように、エリザは呆気に取られて、幾度か瞬きをするかのようにした。
風が止んだ。
手の内に感じていた感触も失っている。
白昼夢だろうか。
明けきらぬ空の下、二輪の花は元のように銅像の一部になっていた。
その後も、変わりなくジェイは高台へやってきた。エリザはその姿を後ろから眺めているだけだ。
本当は教会の鐘のことを訊いてみたい。それに、ジェイは孤独を感じているのではないかと気になっている。けれど、銅像のエリザには何も問うことはできなかった。
時たま、手もとの花を覗いてみた。何の変わりもない。
それにしても、教会の鐘の音を知らなかったことや花が話しかけてくることなんて、今まで考えてもみなかったことだ。
最近、銅像に戻ることもほとんどない気がする。感覚を閉ざそうとしてみてもどうもうまくいかない。無理にしようとすると眠りに落ちてしまい、明け方には意識を戻す。そのとき、自分を呼ぶ声がしたように感じることもあった。
それは、手に持っている花の声ではないかしら。
エリザはそんな気がしていた。
この数百年、一度もなかった何かが起こっている。
ジェイは、その日もいつもと同じ時刻に現れた。「やあ」と小さくエリザに挨拶してから、遠く町を一望する。
エリザはその表情を何度も見返すのが習慣になっていた。秋のころよりも何か思い悩んでいる様子は変わらない。もしかしたら、前よりも表情が曇りがちではないかと疑う。
ジェイが何を悩んでいるのかはよく分からない。その上、この間からジェイがひとりでいて寂しいのではないかという思いは離れない。
わたしと一緒で、いつもひとりなのね。もしもわたしが人間だったら、ジェイに寄り添って話しかけられるのに。
エリザは歌を歌ってみたり、ジェイ、と呼びかけてみたりした。どうしても、どきどきしてしまうのだけど。
無論ジェイは気づかない。
エリザはジェイの様子から今日はそろそろ帰るらしいと気づいて、一度だけ声をかけた。
〈ジェイ、さようなら〉
その言葉と同時に何か声がして、ジェイがこちらを向く。
もしかして、わたしの声が聞こえた?
一瞬、ジェイに伝わったのではないかと、期待に胸をときめかせる。
だが、違った。エリザの足もとに、仔猫が登っていたのだ。
雪のように真っ白な仔猫は、台座の上でさらに「みぃ」とひと声鳴く。ガラス玉のような薄青い色の瞳が瞬いた。
「猫か。まだ小さいな。迷子かな」
ジェイがこちらへ歩を進める。猫はエリザのそばで背中を丸めて、座り込んだ。
「おいで」
ジェイは、エリザの台座までやってくると、その幼い生き物を呼ぶ。猫は小さく声を立てると、ジェイの懐へ飛び込んだ。
「かわいい奴だな」
ジェイは猫を腕に抱くと、優しく背を撫でて、小さく笑った。
久しぶりのジェイの笑顔に、エリザは春の日差しと同じように心が温かくなる。
「お前もひとりぼっちなのか。ぼくと一緒だな。きっと、エリザが引き合わせてくれたんだな。すぐミルクを用意してやろう。ぼくのうちに来なよ」
ジェイは穏やかな声で猫に話しかける。
わたしが猫を呼んだわけではないのに。
勘違いに、エリザはやや複雑な気分を味わうが、彼の喜ぶ様子には自然と嬉しくなる。
ジェイは猫を抱えたままエリザに向き合う。
「またな」
ひと声かけて、帰っていった。