4.冬から春へ
ジェイは、銅像のある台座にいきなり足をかけると、登った。
エリザはどきりとする。すぐそばにジェイの姿があった。
時たまいたずら好きの子どもが登ってきて、エリザに触れることもないではない。けれど、まさかジェイが触れそうなほどそばへ来るなんて、思ってもみなかった。
近づくと、彼の瞳は一層透き通った青い色に見えた。
エリザは緊張するのが自分でも分かった。体も強ばってきたが、そのままでは硬い銅像に戻ってしまいそうな気がする。何とかそうならないように、意志を保つ。
そうすると、どきどきと胸が脈打つのを強く感じた。
ジェイは彼女の目の前で、囁くように告げた。
「きみは冷たくないんだろうな。でも、寒いんじゃないかと思ってしまう」
ジェイはエリザの肩のあたりにそっと触れた。彼女の左肩に積もっていた白い雪を払ってくれる。
驚くエリザの、髪に残っていた雪もそっと振り払った。
「よし」
ジェイは台座から軽々と跳び降りた。
ジェイがこちらを見つめる。エリザも見つめ返す。
〈ありがとう〉
エリザは言葉をかけた。もちろん、通じはしない。それでも、ジェイがにこりと笑うのを見て、嬉しくなった。
「ぼくは家でも誰もいないせいかな。ここにずっとひとりでいるエリザに何だか親しみを覚えてしまうんだよな。銅像に話しかけるのがおかしいのは分かってるよ。だけど、きみが雪のなかで立っているのがどうも寒そうに見えてしまうんだ。ぼくはただ……こうしたいと思っただけだから」
ジェイは恥ずかしそうに伝えると、そのまま去っていった。
エリザは今まで以上に、ジェイが来るのを楽しみに待つようになった。しかし、真冬になり、寒波が度々訪れるようになると、次第に高台までの道は閉ざされることとなった。
間断なく雪は降り続き、町のあらゆるものが白く包まれていく。
高台のエリザの周りも真っ白に染まり、時折木の枝から雪の落ちる音が響く。それ以外の音は、どこかに吸い込まれてしまったかのように静かだった。
冬のそんな情景を、これまでエリザは長年にわたって目にしている。けれども、今までとは考えることが異なっていた。
エリザは、ジェイが自分の肩や髪に触れて雪を取り除いてくれたことを、何度も思い返す。
冷たくないんだろうなと言ったジェイの言葉を反芻して、冷たい感じって寒さってどんなものだろうと思案する。
そうすると、急に雪の冷たさや凍りつくような空気が感じられることがあった。
エリザは驚いて、舞い散る雪のなかで感覚を閉ざす。だが、そのうちジェイはこの感じをいつも味わっているに違いないと思うと、すぐに遮る気にならなくなった。
エリザは寒さや冷たさをありありと実感するようになった。そして、ジェイの手の温かさを一瞬感じた気がして、はっとした。
自分の想像に過ぎないのに。どうしてそんなことを思い浮かべるのだろう。
胸がどきどきすることもある。
その不可思議な鼓動を感じるとき、エリザはどこか人間とつながったように思う。このままこの感覚をずっと持ち続けたら、自分は冷たいままの銅像ではなくて、温かい何か別のものになれそうな心地さえするのだった。
吹雪がやってくると、エリザは感覚を遮断し、より深い眠りへと身を委ねる。
時折、目を覚ますことがある。
そのとき、何か声を聞いていたと思うことがあった。
いつの間にか、エリザは夢を見ることができるようになっていた。
「エリザ。エリザ」
夢のなかで、繰り返し自分に呼びかける小さな声がある。
エリザは覚醒すると、声を追って改めて耳を傾ける。けれど、いつもの高台の上で、誰の姿もない。
雪と風の舞う世界がそこにあるだけだ。
吹雪は続く。
微睡みのなかで、エリザは何度も自分を呼ぶ声を聞いたような気がした。
数週間が経ち、やっと春の訪れが見え始めた。ようやく、エリザも日中は目を覚まして過ごせるくらいになった。雪の降りしきる日々は次第に遠ざかり、晴れ間も徐々に増えてくる。
そんなある日、とうとうジェイが現れた。
「やあ。久しぶりだね」
ジェイは高台へ来るなり、エリザに話しかけた。エリザは嬉しくて嬉しくて、また胸が高鳴るのが分かった。
〈会えて嬉しい〉
エリザはそっと言葉を口にしてみた。通じたらいいなと思いながら。けれど、ジェイはもうこちらを向いておらず、数歩進んで、町を見下ろしている。
当たり前のことだけど、何も伝わらないのは何だか辛いわ。
エリザは少しだけ心が陰るのが分かった。それでも、春の日差しが町を明るく照らし出すのを見ると、気持ちも晴れやかになる。
ジェイもきっと、この暖かさを喜んでいるに違いない。
エリザはジェイの横顔を見つめる。遠くの街並みを自分も一緒に眺めていると思うと、何かを共有している気分になる。しかし、その表情があまり明るく見えないことに気づいた。
冬の季節に寒さをこらえているような感じとは違う。でも、何かが気にかかっているのか、どこかに心配ごとがあるのか、曇った表情だった。
寒さとは全く別の、でも何かを耐えているようにも思われた。
エリザはそんなジェイが気になった。雪に道が閉ざされる前と、何か変わったことがあるのだろうか。
けれど、寒い季節は遠ざかりつつある。これからは、きっとジェイと会える日も多くなるはず。
そう考えて、その日の気がかりや寂しさを心の隅に追いやることにした。
エリザは町を眺め、時計台の鐘の音を聞き、町の人々を見守る。そんな日常をこれまでどおりに過ごしている。春になって、高台にやってくる人も徐々に多くなってきた。
彼女は同じように高台にいながらも、以前には知りえなかった感覚を味わうようになっていた。
まだ冷たい春風、時たま降る雨粒、柔らかな日差し、足もとを舞う蝶の羽が触れるさま、木の葉が肩に降りかかる感触。草いきれ。人々の香水の香り。汗の臭い。食べ物の匂い。
世界は様々な感覚にあふれている。
遮断せずにひとつひとつ感じ入ると、人間たちの気持ちもよく分かるように思った。春の暖かく心地よい空気が余計にそうさせてくれる。
夜になって空気が冷え、町の人々が床に就くと、エリザも睡眠をとる。
以前は眠るのではなく銅像に戻るはずだったが、だんだん全くの銅像になることは減っている。
夜明け前の星の下で、やはり何か声を耳にすることがあった。夢のなかで二つの声が自分に呼びかけているような気配がする。
しかし、朝の鐘を聞いて町の一日が始まると、途端にそんな泡沫のようなことは消え失せてしまう。エリザは町を見渡し、人々の訪れを楽しむ。何年にもわたって見かけ、エリザがそれなりによく知り、親しみを感じている人もたくさんいる。
そんななかでも、ジェイは特別な存在になっていた。
ジェイが姿を見せる日もだんだんと増している。
もともとそんなにたくさんのことを話すわけではない。ただ、秋に会ったころよりも元気がないように見える。
エリザはそのことを気にかけながらも、ジェイが散歩にやってくるときを心待ちにしていた。
春も盛りになると、このローデンセスの町はたくさんの花が咲き誇る。
ここは花の町として有名だ。様々な種類の花を栽培して鑑賞用に輸出している。また、観光の町として、どこであっても景観には気を遣う。どの家も窓辺や庭先に彩り豊かな花を植え、屋内には切り花を飾るのが習わしとなっている。
なかでも、ローデンシーは春の訪れとともにたくさんの可憐な花を咲かせ、ところどころに飾られるようになる。
間もなくそんな季節がやってこようとしていた。
春風が町を吹き抜けるその日、ジェイも少し元気に見えた。彼はいつものように町を眺める。
遠くに見える丘のあちこちに、ローデンシーの花が咲き始めている。もう少しすれば、白にほんのりとオレンジ、黄色、ピンクの色が添えられたその花が、なだらかな丘を美しく飾ることになるだろう。
町の家々の窓辺にも、様々な春の花が飾られる頃合い。
エリザは一年の内で、その景色が一番好きだ。
今年はこうしてジェイと一緒に眺めることができると思うと、それだけで心は浮きたつ。
ジェイはふと、エリザに話しかけるでもなく、呟いた。
「ここからだと、教会はあまりよく見えないんだな。でも、鐘の音はよく聞こえるね」
鐘の音?
エリザは不意を突かれた。一瞬、ジェイの言葉が理解できない。
何も聞こえない。
ジェイの様子からすると、今、鐘の音が鳴っているみたいなのに。
それらしい音は、エリザには何ひとつ聞こえてこない。